杉本真維子の詩を読んでいると、ときどき「小説」を読んでいるような気持ちになる。「馬に乗るまで」も、そんな感じ。
馬に乗るまでのあいだ、
バケツに水を入れて、雑巾を用意し、
林檎二つ、箒とちりとりを持ってきた
ブーツを巾着にいれ、肩から提げて、
自転車に乗っていそぐ。
うるんだ目に尋ねるときは、
こちらの目もひかり、
背を撫でて、呼吸をあわせ、
朝の体調を測る。
小説と違うのは「主語」が省略されていることである。小説と違うが、それが逆に主語と述語を構成する「もの(存在)」の「関係(あり方)」を小説よりも強烈に感じさせる。この「強烈」を「詩」と呼ぶなら、詩なのかもしれないけれど。
最初の五行の「主語」は「私(杉本)」と仮定できる。馬に乗る。その前に馬の世話をする。バケツ、雑巾は、馬の体を拭くためだろうか。私は馬の世話をしたことがないので(乗ったこともないが……)はっきりとはわからないが、たぶん馬の世話をするためだろう。「箒とちりとり」を持っているのは、馬の世話というよりも厩舎の掃除のためだろうか。厩舎のことも含めて馬の世話といえるかもしれない。林檎は馬にやるおやつだろう。自転車に乗っていくのは厩舎が離れているからだろう。「主語」が省略されているのと同じように、細部の「説明」も省略されていることになる。
六行目以下は、厩舎に着いて、これから乗るはずの馬との対話になる。六行目の「うるんだ目」というのは馬の目だろう。ここでも説明が省略されている。そのあと、七行目で杉本は少し困っている。「主語」を省略したために、「私の目もひかり」と書けずに、「わたし」のかわりに「こちら」ということばを補っている。この「困り方」というか、「主語」の補い方が、おもしろいといえばおもしろいが、私はちょっといやな感じをおぼえる。「関係」を強調するために、文体がわざとねじれている。「わざと」書くのが「現代詩」であると西脇順三郎は言ったが、この「わざと」が少しうるさい。
詩が生まれる現場に立ち合っているという感じではなく、詩を作り出している現場に立ち合っている(立ち合わされている)気持ちになるからだ。ほんとうはきちんとした「散文」が下敷きにあるのに、それを「わざと」壊す、壊すことで「もの(存在のあり方)」を強調し、詩にしていると感じるからだ。その「わざと」が嫌いなために、私は、逆に「小説」(散文)を再現するように読んでしまうのだろう。
この作品で杉本が「小説(散文)」を「詩」に変化させる方法として採用していることを整理しなおすと……。
「主語」と、いくつかの「説明」を省略する(拒絶する)ことで、「もの(存在)」をそれぞれ独立させてしまう。「もの(存在)」をつないでいる(分節している、ということもできる)「主語」を消し去ることで、「世界」を「分節以前/未分節」に近い形で読者にほうり出す。「散文脈(論理の文脈)」を寸断し、個々のことばを独立させる。そうして、「分節以前/未分節(未文脈/寸断された文脈/非連続の文脈)」こそが詩である、と主張している。詩を読むというよりも、「詩論」と「詩論にもとづく創作」の関係を見せられている感じになるなあ。
言い直すと、六行目以下は、「馬」であることを忘れ、ただ「うるんだ目」そのものを生きているものとして「分節」し、その「うるんだ」に呼応して、「うるんだ」と分節した(こちらの)目が「ひかる」。その「目」の呼応、分節関係が、「背を撫でる」「呼吸をあわせる」という「動詞」となって、世界を濃密にしていく。「主語」を通り越して、「濃密」になっていく(充実していく)存在の関係--それが詩であり、その濃密さを表現するには「主語」は不要だ、ということなのだろう。
やっていることは、わかる。いや、私の「わかる」は完全に誤解かもしれないが、私の読み方では、そういうことになる。
で、それはそれでいいのだが、もし「主語」やいくつかの「説明」を省略(拒否)しないことには、詩にならないのか、と疑問に思ってしまう。「私は、これから馬に乗りに行く。馬の世話、厩舎の掃除をするために、バケツに水をいれ、雑巾を持って、馬にやる林檎を二つ持って、自転車に乗る。馬は私をうるんだ目で見つめる。その目を見ると、馬が私のことをわかっているのだとわかる。背を撫でて、馬と呼吸をあわせ、その日の馬の体調を知る」という具合に書いてしまっては、「散文」になってしまい、「詩」にならないのか。そのことに疑問を感じるの。「散文」として簡単に意味がわかるように書きながら、なおかつ「うるんだ目」「(こちらの)目もひかり」という、「呼吸」とその「あわせ方」をくっきりと浮かび上がらせる方法はないのだろうか。
(うううん、
首を、横に振っているのに
視線は逸らさないから
冬の狼狽はストーブでも暖まらず、
しばらく、簡易イスに腰掛けて、
行きかうひとを眺めた
火でゆらぐ空気が、
私を蓋って
一つの心臓でうごく
巨大な空間のまま、厩舎を、出た
ここにいるのか?
手を胸に当て、
亡きひとたちがよぎる瞼を、
いない馬が舐める
二連目以下は「馬」と「馬に乗る人(私)」との関係を描いている。馬は首を横に振って、人が乗ることを拒絶する。体調のせいかもしれない。馬はひとを乗せるほどの体力がない。一連目は馬に乗るために厩舎へ行く、というよりも、弱った馬の世話をするために厩舎へ行く、ということだった、と二連目以下で言い直される。書き出しの「馬に乗るまでのあいだ、」というのは「馬が元気になるまでのあいだ、」ということであり、「林檎」は馬を元気づけるための、馬の好物なのだ、ということがわかる。
馬の体調がよくないことに、「私」は「狼狽」する。どうしていいか、わからない。ぼんやりと厩舎の外を行く人(遠い馬場を行く人かもしれない)を眺める。
そのあと、突然「わたし」という「主語」が登場するが、それは「見かけ」のことであって、「文法上」の「主語」は「空気が」と書かれている。馬はどうなるのだろう。その不安が、不安のために大きく鼓動を打つ心臓、動悸がそのまま「ゆらぐ空気」となって「世界」を覆う。「蓋う」と杉本は書くのだが……。
この「空気」という「主語」の「空気」を「詩情」とか「雰囲気」と言い直せば、杉本の書きたい「詩」というものがわかりやすいかもしれない。「存在」が「分節」されるとき、そこにある「空気」(存在をつつみこむ広がり、この広がりを私は「関係」と呼ぶのだが……)が詩であり、その詩を浮かび上がらせるために、ここでは「私」は「主語」としては登場しないのである。「空気」が「蓋う」ものとして「わたし」が登場するだけである。「わたし」が「主語」(主体)となって「関係」を分節するのではなく、「関係」のなかに「わたし」が組み込まれる。
そして、その「不安な空気(巨大な空間/関係)」のなかに、「馬」は生きている。
最終行の「いない馬」ということばを手がかりにすれば、「馬」は「私(杉本は、わたし、と書いているが……)」の世話のかいもなく死んだ。「私」の不安を具体化するように死んだのだが、「私」の「意識」のなかには、まだ「生きている」。
その馬が、世話をしてくれたひとたちの瞼を、舐める。この最終連には、一連目の「うるんだ目」が甦っている。「馬」と「私」が入れ代わって、死者と生者が入れ代わって、触れ合っている。この「入れ代わり」をスムーズにするために、この詩では「主語」が「省略」されていたのだと、わかるのだが。
何と言えばいいのだろう。
ここには詩の衝動というよりも、詩にするための「技巧」がありすぎる。詩の特権である「ことばの自由」より先に、「技巧」がことばを処理して詩に仕立て上げているという印象を持ってしまう。
「技巧」なのかに、あたらしい詩の方法がある、と言われればその通りだろうけれど。
(「分節」という借り物のことばをつかわずに書きたかったが、どうしても「便利」なのでつかってしまった。借り物をことばをつかうと「頭」が勝手に動いてしまって、「肉体」で考えられなくなる。「分節」ということばをつかわずに何かかけるようになったら、また杉本の作品、そのことばの運動について書いてみたい。)
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