嵯峨信之を読む(88) | 詩はどこにあるか

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嵯峨信之を読む(88)

135 哀れな妻

妻はいない
妻はいる
妻はいつまでも木を揺すつている
木の中へ消えていつた自分をとりもどすために

 妻との行き違い。そして傷ついた妻。傷つけた自分。妻はいるけれど、いつもの妻ではない。
 それはわかるのだが、「木を揺すつている/木の中へ消えていつた自分をとりもどすために」という行が私にはわからない。「揺する」という動詞と、私の感覚ではつながらない。木は揺するものではない。木はただ手をあててみるのものだ、という思いがある。
 木を揺するのは、実った果実を振り落とすときくらい。
 わからないままだが、そのあとの二行は好きだ。

向う岸はいつもとおなじ岸だ
大きな鳥がななめに重く飛んでいつた

 「いつもとおなじ」が妻との行き違いを印象づける。妻の「いつまでも」が「いつもとおなじ」であるかのように見えてくる。何度も何度もそれを見ている。
 「大きな鳥」は妻の気持ちかもしれない。「ななめに重く」が、そんなことを感じさせる。その鳥は、「木」から飛び立ったのか。
 そうであるなら、なお、木を揺するがわからない。

136 背徳の日々

 「哀れな妻」とつづけて読むと、「哀れな妻」の「いない/いる」は嵯峨の「背徳」が原因という気もするが、よくわからない。あるいは妻が「背徳」しているのかもしれない。
 「哀れな妻」は嵯峨の「背徳」に対して「怒り」、悲しみにかえて木を揺さぶっていたのか。あるいは自分自身の「背徳」を妻は嘆いていたのか。「木」のなかには楽しい日々の妻がいるのか。「木」には何かの思い出があるのかもしれない。その木と大きな鳥を一緒にみた記憶があるのかもしれない。
 この詩では

ぼくは胡桃のように収縮した

 という行と、

振出しはいくつもいくつもあるが
結末はつねにたつた一つだ

 という行が印象に残る。「胡桃」は唐突な比喩だが、唐突だからこそ、嵯峨は胡桃というものになれ親しんでいるのだという感じが伝わってくる。自然を知っている、という感じがする。
 「振出し」の二行は、嵯峨の詩が「論理」を踏まえて動いていることを印象づける。「論理」があるから、比喩に流されていくということがない。
 また「論理」がことばを支配していると思うからこそ、「哀れな妻」の非論理的(?)な行動が気にかかる。

嵯峨信之全詩集
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思潮社