134雄鶏
女と別れたあとの自分の姿を雄鶏に託している。
ぼくは白い雄鶏がひろげる
太陽にかがやいている羽根をみつめる
あのみずみずしく逞しい六月鶏を
「白い」「かがやいている」「みずみずしい」という形容詞には嵯峨の願いがこめられている。女と別れたことは「こころ」に影響してきている。この三行の前に「あれから幾日たつたろう/あの契約がきれた日から女はやつてこない」という行があるのだが、その「契約」ということばの冷たさ、人間関係とは無縁の美しさ、健康さが雄鶏の描写にある。「こころ」が一種の倦怠のなかにあるからこそ、「肉体」だけでも健康でありたいと願っているのだと思う。
「そして砂上には鶏のあし跡ばかりが点々と/ぼくのけがれのようを洗う呪文のようにつづいている」という行の「けがれ」は、女との契約の日々を嵯峨は不健康なものとみていたということを示している。この不健康は「肉体」にとってというより「こころ」にとっての不健康だろうけれど、それを「肉体」の力で回復したいのだ。
だから、詩の最後は次のようになる。
ぼくはなにもかも忘れて眠りたい
眠りの外にあるぼくの肉体を
たれかが来て遠くへ運び去るまで
眠って何もかも忘れる。それは「ぼくのこころ(精神)」が何もかもを忘れるのである。そうやって浄化された「肉体」が「眠りの外」にある。その力を回復したい。
「たれかが来て遠くへ運び去る」とは、「ぼく」がその誰かとともに「いま/ここ」にある不健康を捨てて、健康のなかへ甦るということだろう。
「こころを」ではなく「肉体を」と書いているところに、「こころ(精神)」の傷の深みがうかがえる。
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