133 ユーカリの木
本当にすばらしいじやないか
ぼくたちが別れた湖のところに一本のユーカリの木が立つていたのは
日記より
アルバムより
どこにいてもその香りは別れた日を思い出させる
嵯峨はとても視覚的な詩人である。二行目のさっと描いた湖と木の関係にもその視覚の強さを感じさせる。ほかにも木はあったかもしれない。しかし「一本の」と書くことで、水平の湖の線と、垂直の一本の木が鮮烈に浮かび上がる。
「アルバム」ということばが「写真」の視覚をひっぱる。
嵯峨はこれに「香り」という嗅覚を結びつける。嗅覚は人間にとっといちばん原始的、それゆえに最後まで生き残る感覚だと言われるが、たかしにそれは「肉体」の奥を揺さぶる。「肉体」の奥を揺さぶられて、別れた遠い日が、いま、ここにそのままの姿であらわれてくる。
視覚に嗅覚を融合させることで、人間の「肉体」がリアリティーをつかんだ。
日によつて
風のぐあいで
木の匂いとユーカリの香りとほのかに混じりあう
そんな夜はことに快く熟睡することができる
ぼくはその幸福のために湖のほとりを離れたがらない
嵯峨の詩を読むと「精神的」な詩人であるとついつい思ってしまうが、こんなふうに「肉体」的でもあるのだ。幸福を「木の匂いとユーカリの香りとほのかに混じりあう」のを肉体(嗅覚)でしっかりつかみとり、それゆえに「熟睡できる」というのは、同じ快い眠りに誘われる感じだ。その湖へゆき、ユーカリの香りを嗅ぎたくなる。
「ぼくは」「離れたくない」ではなく「ぼくは」「離れたがらない」と「ぼく」を客観的に見ている(突き放して見ている)のも、そこに「肉体」が「ある」という印象を強くしている。
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