132 余白のある手紙
別れたひとの手紙を読んでいる「あなた」。「ぼく」ではなく「あなた」になって書かれた詩。
それを書いたひとのおもかげはもう跡かたもなく消えている
ふたりのあいだには匂うような日があつたのだろう
「あつたのだろう」は対象を突き放したような感じがする。「ふたり」と客観的に書いていることも、何か冷たい印象を与える。詩というよりも「物語」を読んでいるような感じだ。しかし、
言葉すくなく語られている幸福が
いまあなたの顔をしずかにあげさせる
この「顔をしずかにあげ」るという具体的な動きが、「物語」を「詩」にかえる。ストーリーではなく、一瞬の時間に視線を引きつける。「あげさせる」ではなく「あげる」だったらもっと感情が濃密になると思うが、「主語」を「あなた」ではなく「幸福」にすることで、感情を抑制している。「あなた」の感情を、それこそ「しずかに」表現している。
「しずかに」というのは、単に「あなた」の動きではなく、嵯峨が詩を書くときの基本姿勢のようなものかもしれない。
具体的でありながら、少し離れている感じ。距離をおいて客観的であろうとしている様子は、次の行にもあらわれている。
あなたはもつと空が明るくなればいいとおもつているようだ
「顔をあげ」るという「肉体」が消え「おもつている」という「こころ」の動きが書かれる。それを「ようだ」としずかに書くのだが、この「ようだ」は不思議だ。単に想像(空想)を書いているのではなく、読者をそういう「想像」へと動かす。「ようだ」と感じたのは嵯峨なのに、詩を読んでいると、その「ようだ」が知らず知らずに自分自身のものになって、私は知らない「あなた」を思い描いてしまう。
これは、やはりその前の「顔をしずかにあげ」るという肉体の動きが私の肉体に響いてきたためだ。つられて、私は「あなた」のように「顔をあげて」遠い空を見つめ、さらにその「あなた」を想像している嵯峨になってしまう。嵯峨になって「あなた」を思ってしまう。「顔をあげ」るという肉体の動きは、それだけ強い力を持っている。
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