131 燕--あるいは愛
嵯峨のことばは対象を描写しながら、それが嵯峨自身の心象になっていく。心象を、外にある存在をとおして語るとも言える。嵯峨の外部にあるものと、嵯峨の内部が交信してひとつの世界をつくる。
燕はその唯一の空をさがした
内空
フルートの音いろをききながら燕が幾羽も溺死した空
「内空」の「内」が嵯峨の内部、精神と重なる。そのとき燕は、私たちが見る燕であると同時に、嵯峨の精神としての燕でもある。つまり「比喩」でもある。
そして「内空」という「比喩」と燕の「比喩」が一緒に動くとき、マイナスとマイナスをかけるとプラスになるように、心象が実在の風景になり、実在の風景が心象になるという現象が起きる。
「空」に「溺死」することはできない。「溺死」は水におぼれて死ぬこと。「空」に「溺死」するとは、「空」という「海」に落ちて、そこで死ぬことだろう。これは「マイナス」で書かれた「比喩」なのだ。
だから、次の行に「墜ちる」ということばが出てくる。
夜が夜のなかへ墜ちていつた空
千の暁が青白くふるえながら花ひらく空
一行目に「唯一の空」と書かれていたが、その「唯一」はこんなふうに次々に姿を変える。それでも「唯一の空」であるのは、それが「内空」、つまり嵯峨の「精神の空」だからである。すべての空は「精神の空」という意味のなかに統合されている。統合されながら、何度も言い直されている。そこを飛んでゆく燕がすべてを統一する。
この言い直し、言い直すことで深まる「統一」が、詩である。
言い直しのたびに、「心象」の見えなかったものが見える。それは一瞬のきらめきで、よく見ようとするとわからなくなるが、「よく見る」ではなく、ただ感じればいいのだ。衝撃を受ければいいのだ。あ、美しい、と。
その唯一の空を燕は掠めさつた
ふたたび飛ぶことのない空をどこまでもどこまでも飛んでいつた
そのとき「内空」、精神の空が読者のものになる。読者の精神のなかに「空」が残る。燕の軌跡といっしょに。
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