嵯峨信之を読む(80) | 詩はどこにあるか

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嵯峨信之を読む(80)

127 夕日が試みる批評

わたしのささやかな感情は
うつりゆく夕日につれて少しずつ位置をかえる

 タイトルそのものが抽象的だが、ここでは「批評」とはどういうものかが比喩をとおしてスケッチされている。「批評」は「詩」ではなく「散文」形式で書かれることが多い。「散文」の特徴は「少しずつ」である。「少しずつ」事実をつみあげながら、というより「事実」といわれるものを「少しずつ」つみあげながら「全体」をいままでとは違った形で統一してみせる。違った視点で「全体」を統一しなおし、そうすることで新しい「視点」のあり方を示す。
 「急激」な運動(過激な運動)でも可能かもしれないが、「少しずつ」が嵯峨の選択した「批評」の方法なのである。
 そしてその批評は抽象からはじまることもあれば、具象からはじまることもある。嵯峨は「ささやかな感情」と「抽象」からはじめている。「抽象」から「少しずつ」「具象」へと動いていく。「少しずつ位置をかえる」は次のように言い換えられる。

ある距離をおいて
わたしは椿の木の周りをまわる

 感情は「木の周りをまわる」という肉体の動きで言い直される。このとき「人間」が具体的になり、嵯峨の肉体の動きと読者(私)の肉体の動きが重なる。そして、自分が木の周りをまわったときのことが呼び覚まされる。嵯峨の「感情」ではなく、自分の「感情」を思い出す。
 ふいに嵯峨に近づいた感じになる。
 「ある距離」をおく、というのも、嵯峨の「批評」のスタイルなのだろう。これは「少しずつ」ではなく、「少し」距離をおいて、ということ。「対象」にべったりと密着しない。ちょうど「椿の木の周りをまわる」ように。この一行は「少しずつ」を補って「わたしは椿の木の周りを少しずつまわる」とすると、嵯峨の対象への向き合い方がわかる。
 「少しずつ」動き、周りをまわりながら動き、そのなかで接近し、一体化するのにふさわしい「対象」を見つけ出し、それと一体化し、代弁する。「わたし」が語るのではなく、「対象」に語らせる。

赤い花はじぶんの夕日かげに驚いて
葉の繁みにかくれようとする
そして下に落ちている一つ一つの魂に気づいて愕然とする

 この変化は「少しずつ」だからこそ説得力がある。「批評」が親身なものとなる。読者は(私は)、嵯峨の「ささやかな感情」が「椿の花の感情」と一体になっているのに誘われて、同じように「椿の花」になり、落下した花びらを「魂」なのだと感じ取る。
 でも、この感じは「批評」? 詩ではないのか。
 わからない。ただ、こうした動きを「少しずつ」書くことを嵯峨は試みている。「少しずつ」のなかに、嵯峨の生き方の「基本(思想)」のようなものを感じる。






嵯峨信之全詩集
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思潮社