八木幹夫は釣りが好きなのだろうか。私は確実ではないものを待っていることが苦手なので、釣りをする気持ちにはなれない。釣りをするひとは、どんな気持ちなのか。何を考えているのか。
「序詩 どぜう」という作品。
どうしても
泥鰌は
どぜう
でなければ
なりません
ヨソユキの裃
一張羅の燕尾服
を着るように
泥鰌
なんて
漢字で
は
感じが
出ません
まあ、こういうような、個人的な「感じ」をただ繰り返して、魚が釣れるのを待っているのだろうなあ。どんなことでも繰り返すと「論理」になるものだが、それを「論理」にしないで「感じ」のまま大切にする。そしてそれを
哲学せよ
みずから
なんて、「哲学」にしてしまう。
こういう詩を読むと、私は、自分の面倒くさがり屋ぐあいがわかって、何だかいやになる。私は「感じ」なんていうものを大事に抱えて、それを味わうことがきらい。「感じ」なんて次々に変わってくれないと、飽きてしまう。
「感じ」としかいいようのない、ことば以前を、そのままもっていられるというのは、うーん、たしかに「哲学」だろうなあ。「達人」だろうなあ。
「鮎と愛」は、鮎釣りをするひとはどうして一日中竿を振り回していられるんだろう、と私が思うような疑問から書きはじめているが、でも八木はほんとうに疑問に思っているわけではないな。次の連を書きたいから、そう書いただけだな。
あゆのことをずっと考えているからさ
でも
あいはむずかしい
あいとあゆはいとがからまるのだ
こういうことばの背景には、それなりの「愛の体験」というものがあるのだろうけれど、具体的には書かない。「愛の体験」なんて、書かなくても誰にでもあるからね。「愛が絡み合う(愛と憎しみ/怒り/悲しみがもつれる)」というのは「日常」。それを真剣にならずに(「論理」にせずに)、だじゃれ風にほうり出してしまう。
「だじゃれ」でどうなるわけではない。どうもならない。かわらない。かわらないものを、かわらないまま受けいれる。これが「感じ」というものの生き方(哲学)なんだろう。一瞬、あ、そうだなあ、それ、わかる、という「感じ」で共有するものなのだろう。
これを、果てしない水の流れのなかで、ただ「流す」。「流す」といっても「流れてなくなる」わけではない。次々におなじ水が(違うのだけれど同じものが)流れてくるのを、これが「川」なのだと思うように、これが「感じ」なんだとつかみとる。
こういうとき、
真っ赤な夕陽をみた
石ころばかりが
ころがる川原で
真っ赤な夕陽をみた
私の中を流れる
どことも知れない川原で (「かわら」)
というような、実際の風景と心象風景が交錯する。そして、
私は少年だったのだろうか
私は老人だったのだろうか
という「思い」がふっと動いたりする。これは「感じ」とはちょっと違った「ことば」の動き。「少年」と「老人」の区別がつかないということは、一般的にはありえないけれど、「少年時代」を思い出すというのと「老人時代」を想像するというのは、意識にとっては差がない。「少年時代(過去)-いま-老人時代(未来)」と直線上に時間を考えることはできるが、その「時間」を思うとき、「思った時間」と「いま」との隔たり(「-」で結んでいるあいだ)に「距離」はないし、「老人時代(未来)」を先に思って、「少年時代(過去)」を後から思うということもある。そういうとき、「思う」という動詞のなかでは「過去」と「未来」が逆転してしまう。入れ代わってしまう。
この「感じ/思い(哲学?)」を「波」ではこんなふうに書いている。
海を見ていると
遠い時間も近い時間も
岸壁でドンとぶつかり混ざりあう
過去が現在になり
現在が過去になって
未来は過去の渦となる
この「入れ代わり」に目を向けると、「思う」も「感じ」も、「論理的」にはいいかげんなものであるということろで、似ているかもしれない。「論理」が必要とする厳密な区別を叩き壊して動くところが似ているかもしれない。
ちょっとめんどうくさいことを書いたが、まあ、釣りをするひとは、そういうことをいちいち「論理的な結論」へむけてことばを動かすのではなく、無言のまま、川に流しているのかもしれない。それを少しだけことばにしてしまうのは、八木が「釣り人」ではなく「詩人」だからなんだろうなあ。
「独白する鯨」には次の二行がある。
わたしが海であったのか
海がわたしであったのか
先に引用した「少年/老人」に似た「対」になった行である。これをまねして、
わたしが魚であったのか
魚がわたしであったのか
とすれば、それが「釣り」の「境地」かもしれない。「自分の感じ/思い(哲学)」という「釣果」を釣る。これを「魚」の側から言わせたのが「魚語の翻訳」。
そのとき
わたしは
しるべきだった
わがにくたいが
とけていく
わがそんざいが
きえていく
わがあいしゅうも
きえていく
ほんやくふのうの
さかなのせかい
でも、こんなふうに「哲学」にしてしまうと、おもしろくないね。読まなかったことにして、「感じ」をもろにぶちまけた「鯖」を最後に引用しておこう。八木らしい「だじゃれ」もあって、詩なんてこんなもんだよなあ、と思う。強く感動するわけではない。高尚な哲学に打ちのめされるわけでもない。ただ、そこに「人間」がいるなあ、こんなふうに「感じる」ものが自分の「肉体」のなかにもあるなあと気づく。そうして、何かこの感じには「なれている」とも思う。「親近感」というより、「なれている」。
他人に対して「なれなれしく」してはいけないのかもしれないが、なんとなく「なれなれしく」してしまいそう。そういう「安心感」もあるなあ。
この詩がいちばんいい詩なのかどうかわからないが、一読してうなる「名作」ではないから、ほんとうの名作かもしれない。
おいくつですか
(いくつだっていいじゃないか)
年齢はいつも
鯖をよむことにしている
尻は青くはないが
からだは青く
生臭いかもしれない
老年というものはついに
おれにはやってこない
晩年というものもついに
おれたちにはやってこない
ふいに
あいつがやってきて
ふいに
おれや
おれたちが
きえる
(青ざめることはないさ)
海はさばさばとして
気持ちがいい
老年よ
晩年よ
ついに別れる時がきた
さらば
さばよ
青く若々しい魚よ
太陽は
いつも新しい
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