嵯峨信之を読む(78) | 詩はどこにあるか

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嵯峨信之を読む(78)

125 公園

わたしの内部をすぎる闇いもののために
葡萄の一房は夕日をあつめているのかもしれない

 美しい書き出しだ。「闇いもの」と「夕日」が向き合って、葡萄の房の光を鮮烈にする。「すぎる」と「あつめる」という反対の動きをする動詞の「対」が、その鮮烈さをさらに強調している。
 この二行は、後半で別の「対」を浮かび上がらせる。

石だたみの白い広場で一日が終わる
そしてわたしはその静かな中心に立つている

 一日が終わる。闇がやってくる。その闇とは反対の「白い」広場。「広場」の広がりは「あつめる」(あつまる)ための広がりである。それは街の真ん中「内部」にある。あつまってきたひとが、ふたたび家に帰り、「内部」が漠然と広がる。その漠然とした広がりと「中心」に「立つ」私が「対」になる。ひとが家へ帰っていくという動詞は、中心の広場から周辺の家へ広がる(散らばる)という動きであり、それは「中心に立つ」(中心にとどまる)「わたし」の動きと「対」になることで、鮮烈になる。
 この集中と拡散という動きのあいだに、

ただその周囲をむなしくさまよいながら
やがてわたしの存在が固まるのを待つほかない

 という抽象的な姿の「わたし」が描かれる。「さまよう」は明確な方向をもたない。「固まるのを待つ」も明確な「核」をもたない。ともにぼんやりした動きである。「わたし」は自分では動いて行けない。「立つ」「待つ」という「静止」の状態にある。ただし、その「静止」は完全な静止ではなく、こころが「さまよう」という動きをともなっている。「静止」は「停滞」と言い換えた方がいい。
 そういう状態でも、しかし「中心」ということばが動く。
 これは青春の精神の特権である。「むなしさ」のなかにも「中心」がある。「わたし」を「中心」と考えることができる。






嵯峨信之全詩集
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思潮社