嵯峨信之を読む(68) | 詩はどこにあるか

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嵯峨信之を読む(68)

115 空へ消える

手でそつとぼくに触れてみた
ぼくは昨日のぼくと全く同じものだ
一つつきりだ
ぼくに加わつたものは今日のこの顔ばかりだ

 最初の三行は、特に変わったことが書いてあるわけではない。誰もが自分の肉体は一つであり、それがきのうからつづいていると思う。けれど四行目はどうだろうか。「顔」も「一つ」。かわならない。けれど嵯峨は「ぼくに加わつたもの」と書く。わからない。
 わからないから、誘われるようにしてつづきを読む。

かなしいときに
うれしいときに
一日を静かに通りぬけていくこの顔だけだ
しかしいま何も持つていないぼくがどんなにそれに堪えているか

 「顔」が「肉体」を通りぬけていく?
 ふつうは「顔」を悲しみやうれしさ、つまり感情が通りぬけていくと言うと思う。悲しいときに悲しい顔になり、うれしいときにうれしい顔になる。
 しかし、「ぼく」には「かなしい(とき)」や「うれしい(とき)」がない。「何も持つていない」。感情がない。
 そして、無表情で「顔」の存在に堪えている。
 「それに堪えている」の「それ」を、そんなふうに読んでみた。

 何の説明もないのだが、そんなふうに読むと、この詩の「ぼく」も嵯峨自身のことではなく、死んでいった友のことを書いたものように感じられれる。
 朝起きて、自分のからだに触れる。そして、あ、まだ生きていると感じる。きのうと同じように生きている。きょうが、またやってきた。けれど、病床にあって、何もすることがない。感情も長い闘病のなかで使い果たしてしまった。それなのに「顔」がある。感情をつたえるための「顔」がある。感情のなさに苦しみながら、生きているひとの切なさを感じる。
 感情の起伏は肉体に響く。だから興奮したりしないようにしているのかもしれない。「静かな感情」に堪えている。
 二連目の三行は、さらに死んでいった友のことを連想させる。

だが時には青白い空をたぐりよせて
ひねもすぼくをそれに縫い合せて
それから空の中へひと羽搏きはばたいて消え去つてしまうことがある

 「青白い空」は「空」に出てきた「白い空」であり、それは病室の窓から見える。「垂れさがつた」空である。その空へ帰っていくというのは「方向」のなかに出てきた「鳥」である。「鳥」になって、「遠い世界」へ飛び立っていく、という気持ちになっている。そういう友にかわって詩を書いている。


嵯峨信之全詩集
嵯峨 信之
思潮社