谷川俊太郎『詩に就いて』(18) | 詩はどこにあるか

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 谷川俊太郎『詩に就いて』(18)(思潮社、2015年04月30日発行)


いない

私はもういないだろう
その岬に
この部屋にも
けれど残っているだろう
着古した肌着は
本棚にカーマスートラは

私はもういない
この詩稿に
どんな地図にも
夜の不安を忘れ
もののあわれから遠く離れて
空の椅子に座っている

 死後のことを書いている。想像しているのか。
 一連目の「だろう」の繰り返しは推定である。
 「その岬」とどこの岬か。わからない。わからないけれど、広い海と、広い空を想像する。明るい光も。谷川の、思い出の岬か。理想の岬か。
 「この部屋」もわからないけれど、谷川が詩を書いている部屋を想像する。
 空想から「現実」にもどってきて、「いない」と「対」になっている「残っている(ある)」を推定している。「着古した肌着」の「肌着」の「現実感」が「岬」の「空想」と「対」なっている。書いてはいないのだが、「肌着」から谷川の「体温」がそこに残っていると想像してしまう。「体温」は「肉体」。だから、そのあとの「カーマスートラ」がとてもスムーズに浮かんでくる。「残っている(ある)」がよくわかる。
 二連目には「だろう」がない。「だろう」は一行目、私はもういない「だろう」、最終行、空の椅子に座っている「だろう」と補うことができる。でも、そうしないで、谷川は「断定」している。
 「推定」(想像)と「断定」(現実)はどう違うのだろう。
 「推定」を繰り返すと「確定」になる。ひとは何度も考える。同じことを考える。同じことを考えると、その同じことがだんだん整理されてきて、自分にとっての「確かな」ものになる。実感として「確定」。「実感」の「実」は「現実」の「実」である。
 二連目は、したがって、谷川が何度も何度も繰り返し考えた結果、たどりついた「実感」なのである。「実感」だから「断定」している。
 死んでしまえば、いま書いている「この詩稿」、つまり、ことばのなかにも私(谷川)は「いない」。「地図」や「不安」は「現実」のもの。「もののあわれ」も「現実」というものがあってはじめて成り立つ。「現実」には、「もういない」。そう「断定」している。
 この「いない」が、最終行で「座っている」と「いる」という動詞に変わっている。
 これは矛盾?
 どうして矛盾したのかな?
 「空の椅子」を「そらの椅子」と読むと、なんだか、天上の「神」になって座っている。「神」になった谷川を想像してしまうが、これは、違うなあ。死んだら「現実」にはいないが「神」になって空にいるというのでは、なんとなく傲慢。あきれてしまう。
 「いない」から「いる」に、どうして変わったのか、それをもう一度見てみる。
 「いない」を谷川は言いなおしていないだろうか。

もののあわれから遠く離れて

 「遠く離れて」が「いない」なのだ。「離れる」が「いない」なのである。「ここ」から「離れる」。それは「移動」であって、存在そのものがなくなるわけではない。
 どんなに「ここ」から離れても、人間は自分から離れることはできない。
 この詩でも、「私はいない」と考える私が「いる」。「ない」を思考する私が「いる」。
 ここから、さらに「ない」を考える思考が「ある」、という具合にことばを動かしていくとどうなるだろうか。谷川の詩から離れることになるかもしれないが、少し考える。「ない」を考える。そうすると「ない」が考えのなかに存在する(ある)。考えというのは、ことばで残すことができる。「考え」という「名詞」ではなく、「考える」という「動詞」もの、そのことばのなかに残すことができる。それは、いつもことばがあるかぎり「ある」。
 この、ことば、とは何か。
 いや、問いの立て方が間違っていたかな?
 「空の椅子」とは何か。私は見たことがない。
 「そらの椅子」なのか「くうの椅子」なのか。それもわからない。
 わかるのは、谷川が、ここに「空の椅子」と書いた「ことば」が「ある」ということだけである。
 それなら「空の椅子」を「ことば」と読み替えてみればいいのではないだろうか。
 「空の椅子」が「ことば」なら、それは「詩」ではないのか。なぜ、谷川は「詩」に座っている、と書かなかったのか。「私はもういない/この詩稿に」と書いたことと矛盾するから?
 私は、その矛盾を超えるために、こんなふうに考える。
 「この詩稿」は、あくまで「この」という限定された詩、ことば。
 けれど「空の椅子」という「ことば」は「限定」を受けない「ことばそのもののエネルギー/あるいは運動としての動詞」。限定された「ことば」になるのまえの「未生のことば」のようなものなのだ。そこから何にでも変化してゆける「ことばの力」。
 そういうものになっている。
 何度も何度も詩を書いてきた。繰り返すと、それはだんだん「空想」ではなく「現実」(確信)になる。それと同じように、何度も何度も繰り返し書いているうちに、ことばはだんだんことばは「本質」になっていく。「ことば=もの」という「対」ではなく、「ことば=運動(考える/感じる)」と「対」になって、エネルギーそのものになる。
 そうなれば、私(谷川)は「いない」でちっともかまわない。
 谷川がいなくても、「ことばの力」が「人間」を育てていく。ととのえていく。そういう「ことば」さえ「あれば」、それでいい。

空の椅子に座っている

 この「座っている」の「主語」は「私(谷川)」でもなければ、「谷川の書いた詩」でもない。「ことば」そのものなのだ。
 「ことば」そのものが「ことば」に座って「いる」。「ことば」そのものが「ことば」のなかに「いる」。「ことば」そのものが「ことば」に「なる」。そして「ことば」として「ある」。
 禅問答みたいな、同義反復のような。

 この作品は「詩に就いて」というよりも「ことばについて」書かれている。「ことば」という表現は出て来ないのだけれど。
 「ことば」ということばが出て来ないのは、私の考えでは、「ことば」こそが谷川のキーワードであり、谷川は人間と「ことば」の関係についていつも考えつづけているために、ついつい「ことば」と書くのを忘れてしまうのだ。省略してしまうのだ。


詩に就いて
谷川 俊太郎
思潮社