嵯峨信之を読む(64) | 詩はどこにあるか

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嵯峨信之を読む(64)

111 春雨

 この詩の「ぼく」と「あなた」はどういう関係にあるだろう。

ぼくが消えてしまうところが
この地上のどこかにある
死は時の小さな爆発にあつて
ふいに小鳥のようにそこに落ちてくるだろう

その場所はどんな地図にも書いてない
しかし誰かがすでにそこを通つたようにおもわれるのは
その上に灰いろの空が重く垂れさがつていて
ひとの顔のように大きな葉のある木が立つているからだ

あなたは歩みを早めて木の下を通りかかる
そしてなにかふしぎな恐れと温かな悲しみを感じる
ぼくの死があなたの過去をゆるやかに横切つているのだろう

 「あなた」は「ぼく」の友人か。恋人か。「あなた」は「ぼく」の死を思い、恐れと温かな悲しみを感じる。そうあってほしいと願っているのか。そうかもしれないが、そういうことを他人に願うのは少し自己陶酔が強いかもしれない。
 「ぼく」と「あなた」を入れ換えてみるとどうだろう。
 「あなた」はなぜ突然、小鳥が空から落ちるように死んでしまったのか。木の下を通りながら、「あなた」を思い出す。人は誰もが死んで行く。そのことをも思う。この木の下で、誰かが「ぼく」と同じように誰か(自分にとって「あなた」と言える人)を思った。思い出した。
 なぜ、木の下なのか。それは、わからない。小鳥の死、小鳥が空から落ちて死ぬと書いたから、その連想かもしれない。空と大地のあいだ。それを結ぶ木。そこにとまって休む小鳥。人生を、そんなふうに思い描いたのかもしれない。
 どんな思いだったにしろ、その「木」の大きさが「ふしぎな恐れ」(生きつづけていることへの畏怖)と「温かさ」(木の温み)を感じさせる。そして木が温かいからこそ「温かな悲しみ」ということばも動いているように思う。
 「あなた」が死んだのは悲しい。けれど「あなた」を思い出すと温かな気持ちにもなる。「あなた」は大きな木の中を走る樹液のように「ぼく」のなかに存在している。
 その「あなた」と「ぼく」の一体感(さらに、それに木も加わった一体感、木によってうながされた一体感といった方がいいのかも)の上に春の雨が降る。

春雨がしめやかに降り出した

 たしかに「しめやか」でなくてはならない。

嵯峨信之全詩集
嵯峨 信之
思潮社