谷川俊太郎『詩に就いて』(12) | 詩はどこにあるか

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 谷川俊太郎『詩に就いて』(12)(思潮社、2015年04月30日発行)




あなたへ

亡くなった祖父の懐中時計が十二時を指している。昼か夜か分からない。規則
正しいヤモリの鳴き声。朝刊にはまた俗耳に入りやすい美談が、一面に載って
いることだろう。と、ここまでは空想。事実としては雨が降っていて、私は机
の前に座っている。ここから詩を書き始められるかどうか、そう思った時には
もう詩がどこにあるのか、どこにもないのか分からなくなっている。以上をレ
シタティーヴのようなものと思ってもらえるかな。

行と行間にひそんでいる
耳に聞こえない音楽が
意味を巷の騒音から
あなたの心の静けさへと
ルバートしていきます

古今のさまざまな言葉で
誦されまた書かれた詩句は
なかば忘れられながら
前世からの記憶のように
あなたの心に木霊しています

日々の感嘆符と疑問符
それらの間隙を縫ってあなたは
感じるのではないでしょうか
自分が世界と一体であると
言葉の胎児の心音とともに

あなたは生きていける
俄雨とともに入道雲とともに
その他大勢の誰かただ一人とともに
死が詩とともに待ってくれている
その思いがけない日まで

 「あなたへ」の「あなた」とは誰だろう。書き出しの部分に「私」ということばがあるが、「私」を対象化して人間、つまり「私のなかのもうひとりの私」(私の別称)かもしれない。「あなたの心」ということばが二回出てくるが、「あなた」と「心」をひとつに結びつけて言ってしまっているところに、「私」と「あなた」の近さが感じられ。「私」と離れた人とは考えにくい。
 「私」は詩を書こうとしている。けれど、詩がどこにあのか、どこにもないのか分からなくなったとつづけて、それをそのまま詩にしている。「亡くなった祖父」ということばからはじまっているので、「詩はなくなった」(どこにもない)という意識の方が強く、そこから「ある」を探している印象がある。「あとがき」にあったことばを借りて補うと「詩作品(ことば)」を書こうとしたが、「詩情」がどこにあのか、ないのかわからなくなった。その結果、死も亡くなった感じがする。どこに「ある」のかわからない。けれど、そういう「分からない」というところから、詩はどこにあるのだろうと切実に考えながら「ことば」を動かしている作品、と言えるだろう。
 私がとてもおもしろいと思うのは、こういうことを書くのに、「レシタティーヴ(叙唱)」「ルバート(テンポを変えながら演奏する)」という音楽用語がつかわれていることである。谷川の音楽好きがあらわれている。そして、その「音楽」が突然出てくるのではなく、その前に「俗耳」というように「耳」があらわれて、肉体を「音」の方へ近づけていく。途中に出でくる「雨」も「雨音」から判断して雨と言っている。(「朝刊には……だろう」と推測しているので、詩のなかの「いま」が深夜だと想像できる。雨は見えないが、聞こえる。)こうしたことば運びのていねいさが谷川の詩の「わかりやすさ」の魅力になっている。またその「わかりやすさ」が何かを隠して、そのために「わかりにくく」していると思うときもある。
 二連目以降、四連目までは「詩はどこにあるのか」を思い出しながら書かれている。「ない」ようにみえるけれど、どこかに「ある」。それを探している。「ない」ところから始めるところが、この詩を深くしている。
 その二連目も「音楽」があらわれる。その音楽を中心とした「対」が、また魅力的だ。「耳に聞こえない」(ここるも「ない」がある)と「音楽」が矛盾していて、その矛盾ゆえになにか「理想の音楽」を想像させる。そして、その矛盾と理想(聞きたいという欲望を刺戟する)の部分に詩があるといえるだろう。「耳に聞こえない音楽」が「詩(詩情)」であり、それと「対」になっているのが「意味」と「騒音」である。「意味」は「詩(情)」を消してしまう「騒音」である。「待つ」という作品に「沈黙は騒がしい無意識に汚染されている」という行があったが、「騒がしい無意識」とは「意味」を求める「声」であり、それは「騒音」である。ここから「詩」とは「意味」とは反対のもの、「意味を持たないもの」という定義を引き出すことができる。そして、この「騒音」は次の行の「静けさ」とは「対」になっている。「耳に聞こえない音楽」が「心の静けさ」のなかでテンポを変えながら動いていく。その「音楽」の「無意味」。「意味にならない」なにか。そこに「詩」がある。
 それは「行間」にひそんでいる「ことば」である。ことばになっていない、ことばである。この「ひそんでいる」から「詩よ」の「まばらな木立の奥で野生の詩は/じっと身をひそめている」という行を、私は思い出す。「耳に聞こえない音楽」は「野生の詩」なのだ。
 三連目も詩のありかを語っている。ここでも「耳(音楽)」が詩を発見する手がかりとなっている。「誦された」言葉とは「声になった言葉」、それは「木霊している」。「音」がある。「書かれた詩句」と「文字」も出てくるが「木霊する」のは「音」である。三連目には「沈黙」も「静けさ」も書かれていないが、「木霊する」という表現が「沈黙/静けさ」をを呼び寄せている。「沈黙(静けさ)」がないと「木霊」もない。「音」と「沈黙」の対比のなかで、谷川は詩を感じている。「音」のなかに沈黙を聞き、「沈黙」のなかに「音」を聞いている。
 四連目にも「胎児の心音」と「音」が出てくる。谷川にとって「音(音楽)」は詩にとって欠かすことのできないものであることが、こういう細部からわかる。また「間隙」ということばは、この詩集の巻頭の「隙間」を思い起こさせるし、「言葉の胎児」という表現は「詩人がひとり」の最終連にでてきた「言葉の胞衣」や「子宮」を思い起こさせる。この詩には、いままで読んできた作品のなかに書かれていた「詩に就いて」のさまざまな部分が響きあっている。響きあいながら、詩は「ない」ように感じられるが、きっとどこかにあるのだと、言いなおしている。
 詩は意味のない沈黙(静けさ)のなかにある。意味は騒がしい無意識であり、騒音である。意味になる前の、未生の言葉。それこそが詩であり、それは人間と世界が「一体」であると感じたときに生まれる--そういうようなことを、谷川は感じているのだろう。
 そう感じながら、谷川は谷川のなかの「あなた」、「詩人」に向かって話しかけているのだ。「あなたは生きていける」と。それが最終連だ。「死」がやってくるまで、あなたは生きていける。死はいつやってくるか、わからない。「詩」と同じように「思いがけない」ときにやってくる。この「思いがけない」は「坦々麺」では「思いがけず」という表現になっていた。詩も死もおもいがけないからこそ、「真実」なのだ。突然やってきて、それまでの連続を断ち切ってしまう「無意味」だから「真実」なのだ。
 無意味の美しさ(真実)のなかで、自分(谷川/あなた)と世界が一体になる。生まれ変わる。そのときの、「言葉の胎児の心音」。それは誰の心音か。谷川の心音か。谷川のまわりに生き続けた言葉の心音か。世界の心音か。区別がつかない。わからない。この「ない」こそが、詩であると思う。




詩に就いて
谷川 俊太郎
思潮社