嵯峨信之を読む(60) | 詩はどこにあるか

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嵯峨信之を読む(60)

107 生と死

 生きている嵯峨と、死んでしまった友。死んだ友を思いながら、生きていることについて考えている。その冒頭の四行。

ずつと川かみの急流だつた
波もなく 音もしない まるで油を流したような目もくらむ急流を
夕方
ただひとりで泳ぎわたつた

 川の上流の急流。急流なら波があり、音もあると思うが、嵯峨は「波もなく 音もしない」と書いている。そして「まるで油を流したような」とその滑らかさを描写している。これは、思い描くことはできるが、私の知っている急流のどれとも結びつかない。そのために、私は、異様な感じをおぼえる。知っていることを突き破って、知らない何かが動いているのを見るような、まるで夢を見ているような感じになる。
 その急流を渡り切った「生(生きる力)」について書いているのだが、あまりに異様な急流なので、それはもしかしたら「死の急流」だったのかもしれないと感じてしまう。死の危険があった、というよりも、その急流には死そのものが流れている。そういう感じがする。
 そういう体験をした嵯峨が友の死と向き合っている。

死がさけられぬと知つてから友はふしぎな落ちつきをました
あるとき蟻地獄の話をしながら
「いまぼくは 透明な大きな円錐型の底にひきこまれようとしている一匹の蟻の
 ようなものだ」
といつて
しずかな笑いを顔にうかべたことがある

 嵯峨は急なもの(激しいもの)を乗り越えた。友は「急(激しい)」とは対極にある「静かさ」と向き合っている。「生」を「死」に向けて、静かに動いている。
 嵯峨と友の違いが、そこにある。
 嵯峨は死と向き合って生き抜いた。友は生と向き合って、その生をまっとうしようとしている。
 友が死んでしまったあとの次の三行がとても印象に残る。

屋上の水槽に水を汲みあげる電動機(モーター)の音が急に高くなつた
その震動で炎えあがるような葉鶏頭がふるえ
窓硝子から長椅子にかすかな微動が伝わつてくる

 急流や蟻地獄が「比喩」なのに対して、ここには「現実」そのものが書かれている。そして、それが「現実」であるだけに、友の死もまた現実だと知らされる。



嵯峨信之全詩集
嵯峨 信之
思潮社