嵯峨信之を読む(56) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

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嵯峨信之を読む(56)

100 言葉

ひとすじに遠く言葉をつたえながら
いたるところで数々の世界がつくられる

 「遠く」とは、そのことばがまだ届かないところだろう。あるいは、そのときことばはまだことばになっていないかもしれない。「遠く」、遠いところにあることばを聞き取り、それを自分のなかで言いなおすと読むと、それは詩との出会いになるかもしれない。
 そんなことを思うのは、次の四行があるからだ。

さつきまでたれかが腰掛けていた揺り椅子が
廊下のはずれでまだ静かに揺れている
そのひとはふいにある言葉をおもいついて外へ出ていつたのだ
それつきりどこかで別の世界がひらけはじめたのだろう

 「遠く」は「廊下のはずれ」と言いなおされている。そこで誰かが「ことば(声)」を聞いた。それに誘われて出ていった。聞いたことばなのだが、自分で「おもいついた」と言い換えてもいいような密着感がある。
 詩のインスピレーションのようなものだ。
 そのことばから「別の世界」(新しい世界)が始まる。

101 旅情

ぼくにはゆるされないことだつた
かりそめの愛でしばしの時をみたすことは
それは椅子を少しそのひとに近づけるだけでいいのに
ほんとうにそんな他愛もないことなのに

 三行目の具体的な描写、椅子ということばが落ち着いて聞こえる。椅子に座っている。動かない。動かない距離の近さがある。
 この距離の近さの喜びと不安は二連目で水車小屋の風景にかわる。

ぼくたちは大きく廻る水車をいつまでもあきずに見あげた
いわば一つの不安が整然とめぐり実るのを
落ちこんだ自らのなかからまた頂きにのぼりつめるのを

 そのとき二人は座ってみているのだが、この「座る」と一連目の「椅子」は、しかし、わたしにはしっくりこない。水車小屋の前で座るとき、そこに「椅子」はあるのだろうか。実際の体験ではなく、架空のことを書いたために、ことばが通い合わなくなっているのだろうか。




嵯峨信之全詩集
嵯峨 信之
思潮社