83 犬二題
詩はかけ離れた存在の出会い、結びつき、融合である。嵯峨の詩は特にそういう特徴が強い。
「犬二題」には二匹の犬が登場する。その二匹が対になっている。
精神はどんな顔をもっているのですか
その重さは何で量るのですか
ぼくは子犬を地に叩きつけて殺した
夕闇のなかで ぼくの周りをいつまでも駈けまわつていた子犬を
なぜぼくは愛され
なぜぼくは憎まれたのか
いま毒におかされて骨ばかりになつたぼくの足を
夜になると痩せ衰えた老犬が舌を垂れて舐めまわしにやつてくる
これは詩の全行ではなく、二連のそれぞれ一部を引用したものだが、一連目では殺された子犬が、二連目では老いているが生きている犬が登場する。
犬を殺した記憶が、犬になってぼくのところへ戻ってくる。
このとき、同時に、ほかのことばも対になって動いている。「なぜぼくは愛され/なぜぼくは憎まれたのか」には「愛」と「憎しみ」が結びついている。犬が「ぼく」についてまわるのは、「ぼく」が愛されているからである。また憎まれているからでもある。なんと言っても、「ぼく」は子犬を殺したのだから。だが、その愛と憎しみの絡み合った形は、はっきりとは分離できない。ここまでが愛、これから先が憎しみという具合には区分けができない。
もうひとつ、「対」が隠されている。「精神」と「肉体」という「対」がある。一連目には「精神」ということばがある。二連目の「足(毒におかされて骨ばかりになつた足)」は「肉体」である。
そのことに目を向けるならば、一連目の「殺した子犬」とは「精神」の象徴である。何らかの「精神」を「ぼく」は殺した(放棄した/否定した)。
二連目は、その放棄した(否定した)「精神」に「肉体」が反逆されているということになるのか。毒におかされ、骨になった(つまり、死んでしまった/あるいは機能しなくなった)「肉体」を「精神の犬」が舐めにくる。
そのとき「老いた犬」こそが「肉体」であり、「骨になつた足」は「精神」かもしれない。
「対」になって動く存在は、いつでも入れ代わる。「対」であることが確かなのであって、それぞれの「存在(意味)」は固定されていない。「意味(存在)」を自在に入れ換えて、それまで存在しなかった「世界」を浮かび上がらせるのが詩である。
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嵯峨 信之 | |
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