嵯峨信之を読む(39) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

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74 漂流者

 詩の前半は非常に抽象的だ。

ぼくは空間を信用しない
時間を信用しない
ついに人間まで信用しなくなつたので

 「空間」「時間」「人間」に共通するのはなんだろう。「間(あいだ/ま)」、つまり「関係」か。関係が固まってしまって、どこにも行き場がない。
 だから

もうながいあいだ大空のもとで金縛りにあつて動けない

 「金縛り」は、その身動きの取れない状態をあらわしている。「間(あいだ/ま)」のなかを動いて、関係を変更していく。関係をつくりかえながら生きているのが「ひと」なのだろう。「人間」になる前の、「関係」がまだつくられていない、一種の「未分節」の状態。「関係」が「無」の状態に、嵯峨はあこがれている。
 で、次のようにことばが展開する。

そして時間も空間も人間もいないところで
魂をすつかり石で囲んで
その中から鳥か煙りのようにぼくを舞い上がらせよう

 「時間も空間も人間もいない」は時間も空間も「ない」、人間も「いない」。「ない」「いない」は「無」。「無関係」の「無」につながる。
 「魂」と「鳥/煙り」の比喩がわかったようで、わからない。これを言いなおした次の三行が美しい。三行全体が、前の三行の比喩になっている。

たとえば無人の島へ泳ぎついた者が
まず何よりも石を集めて囲炉裏をつくり
火を焚いてあらゆる夢をそこからひとすじに立ちのぼらせるように

 嵯峨は「漂流者」を夢見ている。「無人島」の「無」は「無関係」の「無」。それまでの関係をいったん断ち切り(無にして)、新しい「関係」を夢見て、その「新しい関係」の「象徴」として「のろし」をあげる。だれか、「ぼく」を発見してほしい、と。だれかと、孤独からそのものから出発して出会いたいと言っているように思える。

75 蝉の歌ごえに乗つて

そこへぼくを捉えようとするなら
影を鎖でつなぎとめねばならない

 この書き出しの二行はイメージとしてはわかるが、どういう「意味」なのか、わかりにくい。「鎖でつなぎとめる」の「つなぎとめる」は、「漂流者」で読んだ「関係(空間/時間/人間)」と「ぼく」と重なり合うかもしれない。「ぼく」を「捉える」ものは「関係」である。「関係」が「ぼく」を捉える。つかまえる。「そこ」は時間/空間/人間の「関係」の場だろう。
 この詩は「漂流者」と違って、その「関係」を直接拒否しているわけではないが(拒絶を語っているわけではないが)、似ている。通い合うものがある。
 「影を鎖でつなぎとめる」というようなことは、不可能である。「影」は太陽の位置によって変わってしまうからである。太陽を「理想(希望)」の象徴だと仮定すると、「ぼく」の影は、その太陽から生まれている。その太陽と、太陽がつくりだす影の「関係」が「生きる」ときの「間(あいだ/ま/場)」ということになるかもしれない。

立つている一本の藁の周りで
影はゆつくりゆつくり一日中まわつている
それは太陽からの遠い距離に親しまれているからだ
生きる力はそのような距離のなかにあるのだろう

 「距離」と書かれているのは「間(あいだ/ま)」である。その「距離」ということばに「親しまれている」という表現がくっついている。「間」は「関係」でもあった。「親しい関係」の、その「親しい(親しむ)」のなかに「生きる力」がある。希望(太陽)と「親しく」結び合いながら、ひとは「生きる」。「親しむ」という動詞を生きる。
 もし、太陽がなくなったら、太陽が昇らなかったら、曙がやってこなかったら……。

もしぼくが小さな曙を消したら
ぼくのたつた一つの領域は無くなるだろう

 「影」は存在しなくなる。「希望(夢)」が、「ぼく」を自在に変える。「自由」に変える。自分自身の「太陽」をもつことが許されないのなら、

そして空は遠のいたきりふたたび帰つて来ないだろう
それからぼくは蝉の歌ごえに乗つて
ついについに何処か遠いところへ行つてしまうだろう

 「どこか遠いところ」は「死」かもしれない。そこまで深刻ではなくて、「漂流者」を夢見てしまう、ということかもしれない。

嵯峨信之詩集 (現代詩文庫)
嵯峨 信之
思潮社