その母はみずからの命を断つた
娘の前で娘とともに辱しめられてどうして生きていられるのだ
そのまま生きつづけられる世界はどこにもない
それはぼくたちの責任ではなかつたと誰に言える
嵯峨は「責任」として詩を書いている。そういう書き方もある。「責任」ということばで書くことを引き受ける。それが嵯峨の「誠意」である。
69 おもかげ
その端正な顔のつめたさは白い鞣皮(なめしがわ)に触れたようで
「鞣皮に触れたようで」という比喩が、私には、よくわからない。「その人」が鞣皮にふれたときに「つめたさ」を感じたのか。それが「顔」に出ていたのか。それとも「鞣皮にふれた」は嵯峨の体験なのか。嵯峨にその体験がなければ、この比喩は生まれてこない。しかし、「その人」にその体験がなくても、嵯峨は自分の体験したことを他人に託して、それを比喩にすることができる。
「比喩」は対象を印象づけるものだが、「比喩」を語るのは詩人である。そのとき、詩人は「比喩」を語ることで、「対象」になっている。
その言葉には夕顔のようなはかなさがあつた
この一行は、嵯峨が、そのことばを聞いたとき夕顔を思い出したということだ。その人が「夕顔」をはかないと思っているかどうかは関係がない。嵯峨は「夕顔」の比喩をつかうことで、「その人」になっている。
その人に「なっている」から、ことばの「意味」を聞き返さなくても、その「気持ち」までわかってしまう。
深い夜霧のたちこめている米原(まいばら)の駅で
わたしは二列車に乗りそこなつて立つていた
--わたしも戦災者です 芦屋であいましたの
戦災にあった人が、その地をはなれ、どこかへ行こうとしている。列車は満員だ。米原は乗換駅。ひとがあふれる。なかなか乗れない。二列車の「二」が、その困難さを語っている。そのつらさを、嵯峨も表情に出していたのかもしれない。知らない人が話しかけてくる。そのときの「気持ち」がわかってしまう。話しかけられる前に、「その人」を見つめたときから嵯峨は「その人」になっている。同じ境遇になっている。
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嵯峨 信之 | |
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