二行目の「ボート」は三年後も同じ場所にあり、詩人によって発見される。その後、枯れた葦はさらに枯れ、そのたびに季節が繰り返される。そのあとで、もう一度詩人がそれを見つけるのだが、それは七行目に書かれている「ボート」である。横腹の板のペンキはところどころはげている。詩人の好きな数字が、逆さまになって水に映っている。
この注釈は、しかし、正確ではない。七行目の「ボート」は、あのときと同じように底が抜けて、くらい影のなかへ素早く青い魚が隠れていくが、同じ場所ではない。同じ湖ではない。川ではない。ほんとうは違った場所である。これは詩人が間違えたのではなく、わざと違う場所、違う時間をひとつに重ね合わせているのである。
「ボート」のなかでささやかれたことばは、すべて同じであるがゆえに、何度失望したか。何度、そこを離れたか。詩人は多くを語らないが、四度以上である。「周りで枯れた葦が騒いでいた」と書かずに、詩人は「枯れた葦の茎が何度も何度も折れた。その断面が白く光った」と書いている。それはしかし二行目の「ボート」でのことでもなければ七行目の「ボート」のなかから見た光景でもない。きめのこまかい泥が透明な水の下で光っていた。
「水の匂いが違う」と詩人はいつも感じていた。「ボート」も「枯れた葦」も、時間も場所も同じではないのに、それは同じものとしてあらわれる。区別がつかない。しかし、水の匂いだけは違っていると詩人は言う。まるで「自分の心から出てきたようだ」と不思議なことばで、その違いを説明している。このことばこそ注釈が必要なのだが、詩人は論理の屈折の説明を拒否した。「自分の詩を語ることは嘘をつくことだ」。
注釈は、ここまで。これから書くのは、私の感想である。
私は別の詩人の詩のなかに「何かが肉体のなかで増えてくるのを感じた」という一行を読んだ。そのとき「自分の心から出てきたようだ」ということばが、ふいにやってきた。それは記憶違いで、ほんとうは「自分の心から出て行きたい」だった。
そうだったのか、と私は納得した。二人は同一人物なのだ。いくつもの筆名で書いているのだ。
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