われらが習いおぼえたことを
ふいにもういちどたしためてみたいと思うときがある
この書き出しは「論語」のようだ。「子曰わく、学びて時にこれを習う、また説ばしからずや」。「習いおぼえた」を「学びて」、「もういちどたしかめ」る「習う」と孔子はいっているのだが……。そうすると、こころうれしい。そのたびに理解が深まるのだから、と孔子は言う。
この「たしかめる」を嵯峨は、別なことばで言いなおしている。
あまりに遠くにあるためにあやふやなものを
われらはしずかな誠実なひといろで その輪郭をなぞる
「たしかめる」は「なぞる」こと。この「なぞる」という「動詞」は、さらに変化していく。
そしてわれらがなぞっていた線が
ふいに竪琴の絃のように鳴りはじめる
われらに遠い第二の世界が
すでにわれらの周りにあることを感じる
「線をなぞる」とその「線」は「竪琴の絃」にかわる。「輪郭」は線に、「線」という抽象は「絃」という具体にかわる。「竪琴の」ということばが「具体」をさらに説明する。そのとき、書かれてはいなが「なぞる」は「触れる」だろうと思う。対象と肉体がもっと具体的にかかわる。絃を「鳴らす」(絃を動かす動かす)かもしれない。
「確かめる」は単に精神的な運動ではなく、「肉体」そのものの具体的な運動であり、その「肉体」が対象に触れて、対象が反応する。そして、そこにいままで存在しなかったものがあらわれてくる。
音が鳴りはじめる。
この「音」はどこに属するのか。弦に触れた「われら」に属するのか。それとも「絃」が持っているのものなのか。「われら」と「絃」との「あいだ」にあるもの、触れるときだけそこにあらわれる何か。
「学び、習う」「習い、確かめる」とは「対象」とは「われら(肉体)」のあいだで、「動詞」といっしょに、そのときだけあらわれるものだ。「真実」は瞬間的なものだ。だからこそ「もういちど」を繰り返さなければならない。「真実」は「遠い第二の世界」(日常の世界から遠い)。けれど、「真実」をもとめて「肉体」が動くとき、そこにあらわれる。「すでにわれらの周りにある」ということが起きる。「習いおぼえた」ときの「肉体」、「肉体」が「おぼえている」ことをつかって、「肉体」をうごかす。そうすることで「確かめた」ことが「確実」な「事実」になる。このとき、それは「事実」であると同時に「真実」である。
このくりかえし。
「時にこれを習う」の「時」は「常に」でもある。「もういちど」は「何度でも」でもある。
59 流れる七夕祭
七夕飾りを川に流す。「流れてゆく寂しい祭礼をどこの村が待つているのか」という美しい一行があるが、書かれていることは「寂しい」と「祭礼」のように、一種の矛盾のような緊迫感を感じさせるが、(「祭礼」は「にぎやか/豪華」というのが「流通概念」である)、具体的には何をイメージしているのか、わかりにくい。
一日とは ひと月とは 一年とは
何という目印でひとは各各の収穫をわけあうのだろう
そして向うのながい時がぼくをすべてから隠してしまうのだ
そこにはあらゆる名がただ一つの名に帰る砂地がある
「ただ一つの名」とは「死」のことだろうか。「時」の果に「死」があり、それは「すべてを隠」す。死んでしまえば、何もわからなくなる。
どんな小さな出発も どんな大きな到着も
その糸はどこからか遠くそこまでつらなつている
唐突に出てくる「糸」という「比喩」。「時の流れ」のことだろうか。「流れ」がつくりだす「連続性(糸、長い糸)」。その果に「死」がある。七夕飾りは、川を流れて、やがて「死」にたどりつく。それは「寂しい」ひとつの「事実」(真実)である。
そういうイメージなのだろう。
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