「一つの島」は架空の島なのだろう。注釈で特定していない。
あなたの想うことが湖から吹いてきます
という不思議な一行からはじまる。「あなたの想うこと」とは何か。あなた「が」想うこととは違うのか。「ぼく」があなた「を」想うときにあふれる何かだろうか。「あなた」と「ぼく」と「想う」が交錯する。
たしかなことは「想う」という「動詞」がそこにあるということ。ほかのことは、わからない。ゆらいでいる。
そう思っていると、あるいはそう思うからなのか……
あなたは遠い島のようにすべての憧れをあつめ
雨の日や霧の日は姿をかくします
「島」は「比喩」。「あなた」は「島のよう」。けれど「島」ということばが動いた瞬間から、「島」が「あなた」をのみこんでしまう。雨や霧が隠すのは「あなた」ではなく、「島」である。「あなた」は「島」になってしまっている。もう、そこには「あなた」はいない。
「島」が「あなた」の比喩なのではなく、「あなた」が「島」の比喩のように思える。「島」を「あなた」と呼んでいるように思える。そう考えると「あなたは遠い島のように」という比喩が、比喩ではなく混乱になってしまうが、「比喩する(比喩にする?)」という「動詞」のなかでは、何が「現実」であり、何が「比喩」なのかという問題は消えてしまうのかもしれない。「比喩にする」という「動詞」が重要なのかもしれない。二つの存在をつなぐことで二つが交錯して「ひとつ」になる。「ひとつ」としてこの世界にあらわれてくる。
「あなた」と「ぼく」が交錯したように、ここでは「あなた」と「島」が交錯する。そして、そのときわかるのはあこがれを「あつめる」、姿を「隠す」という「動詞」である。何かを「あつめ」、また「かくす/かくれる」。大事なものを「かくす/かくれる」。かくされる(視線が届かない/遠い)ので、その何かがいっそう大切なもの、「あこがれ」になる。ことばは振り返りながらさらに交錯し、渾然一体となる。
「主語」といえばいいのか「対象」といえばいいのか、この詩に出てくる「もの(人、物/存在)」は、何か、はっきりした輪郭(個別性)を欠いている。
これは詩が進むとさらに激しくなる。
ぼくは時おりその島に向つて
たれか声ながくさけぶのをきくことがあります
瞬間的に「たれか」とは「ぼく」に違いないと思う。「ぼく」と「たれか」が交錯して見分けがつかなくなっているのだと思う。
そうすると、ほら、
ぼくをたちこめている霧の中のどこかで
ちょうどぼくがさけびたくなると
ふしぎにその声はきこえはじめるのです
「ぼくがさけびたくなるとき」聞こえるなら、それは「ぼく」の代弁者、いや「ぼく」そのものだ。いや、「霧の中」に隠れたのが「島/あなた(あこがれ)」であったはずなのに、それはいつのまにか「ぼく」にかわっているのだから、それは「あなた(あこがれ)」の叫びであり、「あこがれ(あなた)」の叫びであるからこそ「ぼく」の叫びでもある。「あこがれ/あなた」以外のだれかの叫びなら「ぼく」は「ぼくの叫び」とは勘違いしないだろう。
これを、嵯峨はさらに言いなおしている。
その声をじつときいていると
それはだんだんぼくの声に似てきます
嵯峨は、「あなた」ではなく「ぼく」を発見する。「ぼく」のなかにある「ほんとうのぼく(あこがれが何であるかわかる人)」。それを「あなた」と呼び、「島」と呼んでいたのだ。それらは「似る」という「動詞」を通ることで、別個のものなのに「ひとつ」になる。
それは、さらに変化していく。
やがてまた父の切ない声のようにも
いやもつと奥深い永劫のはてからぼくのなかにつづいている なにものかの声に
「なにものか」としか言えない何か。特定できない何か。
特定できないのだけれど、「つづく」という動詞でつながっていることがわかる。「似る」ことによって「つづく」になる。「つづく」は「つながる」であり、「つながる」は「ひとつになる」でもある。
「ぼく」のなかにある「ほんとうのぼく(あなた)」は、父とつながり、父を超えてさらにその父(祖父)という感じでつながり「永劫」につながる。人間がむかしから感じていた「あこがれ」、何かにあこがれる(動詞)ということに、つながる。
「永劫」といっても、それは遠くにある何かではなく「いま」が「永劫」になるのだ。自分を超えて、何かにつながると感じる瞬間、そこに「永劫」がある。「あこがれる」という「動詞」が、「いま」を「永遠」にする。
この「あこがれる」は「あなたの想う」の「想う」という動詞でもある。「想う」のなかに「いま」と「永遠」が「ひとつ」になる。
「ぼく」のなかの「ほんとうのぼく」を「あなた」と呼んだ瞬間(いま)、あるいはその「あなた」を「一つの島」という比喩にした瞬間(いま)、島が霧に隠れる、だれかが叫びをあげると感じた瞬間(いま)、「肉体」のなかで動いた「いま」こそが「永劫(永遠)」なのだ。
こういうことは「論理的」には説明できない。「比喩」の錯乱(混乱)のなかで、ぱっと爆発して消えていくものである。そして、それが詩なのだ。
45 美少年
「大淀川河口」の注釈。
きゆうにぼくが起きあがると
つづいて傍らのひとりも立ちあがつた
この「傍らのひとり」は「比喩」。「ぼく」の「比喩」としての姿だろう。「美少年」になって、大淀川河口を歩いている。ナルシズムかもしれないが、ナルシズムは青春の特権である。
その「特権」をとおって、感覚はいきいきと動く。そして「風景」に出会い、美しいことばに結晶する。
奥の繁みに射しこんでいた川明かりがみるみる消えはじめる
「奥の繁みに射しこんでいた川明かり」にびっくりする。視力が強く、透明である。「奥」にある「明かり(光)」を一瞬の内にとらえる強い目を嵯峨はもっている。
汐くさい獣のように満潮の入江が膨らんでいる
満潮で河口が膨れる。その変化をとらえる視力が鋭敏だ。そして、それを「獣のように」と感じる野性的な感覚。そこには野性に対する共感のようなものがある。嵯峨のことばは繊細な印象を与えるものが多いが、肉感的なものにも触れていることがわかる。その「肉感」の奥に、「くさい」(嗅覚)がうごめいている。
視覚で風景を描写しているのだが、その奥から嗅覚が視覚を刺戟している。視覚のなかに嗅覚が融合している。
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嵯峨 信之 | |
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