嵯峨信之を読む(20) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

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36 蜻蛉

 「折生迫港」の注釈。港で見た光景。

眼に見えぬ風のざわめきがいつまでもぼくを不安にする

 この「眼に見えぬ」はなぜ書かれなければならないか。「風のざわめき」の「風」そのものはだれにも見えない。風にざわめく木の葉、草は見える。また風によってざわめく木の葉や草の触れあう音は聞こえる。しかし、「風」そのものは見えない。見えないものをわざわざ「見えない」と書くのは、神経が緊張していることをあらわしている。神経が張り詰めていて、そのためにことばが余分に動いてしまう。それが「不安」と呼応している「不安」とは張り詰めた気持ちで何かと向き合うときに動くこころである。
 「眼に見えぬ」は文法的には「風」を修飾しているが、「意味」(主観)としては「不安」を定義している。
 この不安を、嵯峨は別な形で言いなおしている。

ぼくのなかにある不安の小さな塊り
なにも刻んでないその石の上に
薄い翅をふるわせながら
蜻蛉はとまろうとしては離れている

 「不安」は直接的には「石」と言いかえられているが、詩を読むと、「不安」は「蜻蛉」のように見える。「薄い翅」の「薄い」が弱さ、こころの弱さと重なり、「不安」を連想させる。「ふるわせる」も「不安」と重なる。なによりも「とまろうとしては離れている」という不安定な動きが「不安」を感じさせる。
 そこには「風」の動きも感じられる。風があって、蜻蛉は風に流され、とまとうとしてとまれない。石から離されてしまう、というような動きも。
 書かれていることば、その定義を無視して、私は「用言(動詞)」に引っぱられて、不安を身近に感じる。
 これは「誤読」、あるいは読みの「逸脱」なのだが、そういうことを許しているのが詩である。

37 葡萄蔓

 「宮崎旧居」の注釈。嵯峨の家には葡萄があったのか。葡萄は「女を愛するとは」「わが哀傷の日の歌」にも出てきた。女の思い出といっしょにある。「旧居」といっしょに登場してくると、そこに「母」を感じる。嵯峨は、女を母と重ねるようにして感じ取っていたのかもしれない。--この詩は女(あるいは愛)というものを主題としているわけではないのだが、ふと、そういうことを思い起こさせる。
 一粒の実も葉もつけていない葡萄の蔓、

しかしそれはなんとしずかなことだろう
それは盲(めし)いたひとの言葉のようにやさしく
その蔓は真実の心からひたむきに伸びあがつている

 「しずかな」は「盲いたひとの言葉」という比喩をとおり「やさしく(やさしい)」と言いかえられる。さらに「盲いたひとの言葉」は「真実の心からひたむきに伸びあが」ると言いなおされる。
 「比喩」をとおって、ことばの「意味」が深まる。「比喩」は単なる言い直しではなく、特化された「意味」なのだ。何かをゆがめ、印象づける。明確な意味ではなく、不明確であっても、強烈に印象に残る「強いことば」。それが「比喩」の特権である。
 真実の心から発せられたことばは「しずか」であり、「やさしい」。
 私は先に女、母、愛ということばを連ねたが、「盲いた」は「盲目の愛」、「母の愛」のやさしさ、「母の真実の心」からの愛、というふうに連想を広げていくこともできると思う。
 「しずか」「やさしい」は、それだけでは抽象的なことばなので、いろいろなことを引き受け、受け止めてくれる。

穏やかな夕日をうけると その静けさはさらに深まる
どこかにぼくの知らない価値があるようだ

 嵯峨は「しずか」「やさしさ」をさらにそう言いなおしているが、それでも抽象的なままである。ただし、そこに「ぼくの知らない」ということばが入り込むことで、ことばの向きが少し変化し、その抽象はまた違った「真実」になる。
 なにも身にまとわない葡萄蔓に、嵯峨は「しずけさ(静けさ)」を感じている。その静けさは「比喩」としてなら語れるが、具体的には語れない。語る方法を「ぼく」は「知らない」。--そう語る正直さ。ここでは、嵯峨の「真実の心」が「知らない」という「正直な告白」でたしかなもの、「事実」になる。
 「知らない価値」(語れない価値)というものが、「語らない」ことによって「嘘」からすくわれる。「真実の心から」のことば、「知らない」という正直が、「抽象」を「事実(具体)」に変える。
 正直なこころが、そのとき「しずけさ」のかわりに、そこに存在しはじめる。「しずけさ」と「正直なこころ」がひとつのものとして、そこに存在する。
 比喩とはかけ離れた何かを結びつける方法ではなく、まだ言語化されていないものをことばにして存在させる方法なのだが、それは「方法」というよりは、こころのあり方なのだ。
嵯峨信之全詩集
嵯峨 信之
思潮社