嵯峨信之を読む(14) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

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24 一つの綱

 「たれもかれも時には魂を不用なものだとおもう」と書き出される。魂がなければ、上手な嘘で女を誑かすことができる。そういう「論理/意味」が書かれたあと、

そして女をすつかり手なずけたところで一緒に戸外へ出て
深い夜霧に酔つぱらつてしまおう
それから二つの口から呑んだ霧を綯い混ぜて
なにより丈夫な一つの白い綱を作ろう
その両端を力いつぱい引つ張りあつて男と女の悲しさを知ろう

 男が魂をほうり出して女を誑かすなら、女もまた魂をほうり出して男に誑かされているという嘘をつくのかもしれない。知っていて、騙されたふりをするのかもしれない。二人のことばは、夜霧のようにぼんやりしている。それが絡み合ってだんだん「一つの白い綱」(一つの男と女のストーリー)になる。互いに、それを自分の方に引っぱろうとする。「誑かす」ときの「主導権」を握ろうとする。
 そういうことが書いてあるのだと思う。
 この詩で、私が傍線を引いて、あ、このことばについて書こうと思ったのは、最後の「男と女の悲しさを知ろう」である。「悲しさ」というのは安直なことばのようにも見える。「悲しい」ということばをつかわずに「悲しい」を書くのが詩だ、と言われるが、そういう「定義」にしたがえば、この「悲しさ」に詩はない、ということになるのだが。
 それでも、私はそこに詩を感じる。
 ここに書かれている「悲しさ」は、ふつうにいわれている「悲しさ」とは違うからだ。何かを失くして「悲しい」というような、喪失をともなうものではない。あえて言えば、「嘘をついてしまう」「主導権をとろうとしてしまう」--そういうことを「してしまう」ことの「悲しさ」、人間の宿命のような「悲しさ」だからである。「宿命」を言いかえた「比喩」になっているからである。
 詩の前半と結びつけて、「魂を失った悲しさ」と言えなくもないけれど、そんなふうに読んでしまうと、あまりにも「論理的」でおもしろくない。だいたい他人を誑かすことで魂を失くしているのなら、魂は「悲しさ」を感じないだろう。
 最後の「悲しさ」は魂を超越する「業」なのだ。
 それを「知ろう」と、女にも呼びかけていることろがおもしろい。この「業(宿命)」は男だけのもの、女だけのものではない。男と女を結び、男と女の区別なく、人間の本質につながるものなのだ。

25 忠告

 女と喧嘩して別れてきた。三週間も、家から遠いところでひとりですごした。もう家へ帰るときだ。

もう三週間も汐かぜに吹かれていたのだから
罵りさわいだ腹の虫もすつかりおさまつているだろう
それ以上 本当にそれ以上遠いところのない心のはてに来たのだから
その悲しみを話してみるがいい

 「それ以上 本当にそれ以上遠いところのない心のはてに来た」という部分に思わず傍線を引く。「心のはて」というのは主観なのだが、「それ以上に遠いところのない」も主観なのだが、なぜか、心のはてを別な視点で見ている感じがする。その新しい視線のあり方に、はっと目が覚める感じ。
 「罵りさわいだ」心ではない、「別の」心。その「別の」こころによって、それまでのことが見つめなおされている。見つめなおしによって「客観」が生まれている。
 感情を感情の暴走するままに書くのではなく、感情を見つめなおす。そのときの「客観」が描き出す不思議な冷たさ。「冷たい主観」が抒情というものなのか。
 こういう「冷たい主観」のあとでは「悲しみ」も感情に溺れた悲しみではなく「客観的」な悲しみに見える。抒情というのは、ある種の「理性」によって統制された(制御された)こころの動きなのだろう。
 このあと、この詩は、もう一歩先へ進む。

誰に言うというのか
誰もいなければやつぱりきみ自身に話すことだ
もしきみがいなかつたら
もしきみがいなかつたらと言うのか
それから先きはぼくにはなにも分からない

 自分自身との「対話」。これも「客観」の方法である。「別の」きみになって、きみ自身に言う。
 そういう「対話」ができなかったら、というのは、また怒りが爆発したらということかもしれない。自分を見失ってしまったら、どうすればいいのか。
 家に帰る前に、もう「対話」ははじまっているのだが、その「対話」の、「対話」にならないところが、とてもおもしろい。とても切実だ。何度も何度も読み返し、考えたくなる行だ。
                           2015年02月14日(土曜日)



嵯峨信之詩集 (現代詩文庫)
嵯峨 信之
思潮社