鈴木志郎康「深まる秋の陽射しがテーブルの上にまで届くんです。」 | 詩はどこにあるか

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鈴木志郎康「深まる秋の陽射しがテーブルの上にまで届くんです。」(「モーアシビ」302015年02月10日発行)

 鈴木志郎康「深まる秋の陽射しがテーブルの上にまで届くんです。」は書き出しがおもしろい。

秋も深まって、
十月も三十日に近づくと、
わたしの家の、
大きな窓ガラスを通して、
深まる秋の陽射しがテーブルの上にまで届くんです。
大きなガラス窓。
深まる秋の陽射しを、
テーブルまで届けさせる
わたしの家の
大きな窓ガラス。

 書かれていることばに知らないことばはない。情景もとてもよくわかる。秋の陽射しが部屋のテーブルまで届く。届いている。それを、最初は「テーブルの上にまで届くんです。」と「陽射し」を主語にして書いている。それを「大きな窓」を主語にして「テーブルまで届けさせる」と書き直している。ただし、「大きなガラス窓。」といったん文章を終えている。「それが」深まる秋の陽射しを、テーブルまで届けさせるという具合に「主語」を補わないと文章にはならないのだが。その不完全さを、さらに倒置法をつかって「深まる秋の陽射しを、/テーブルまで届けさせる/わたしの家の/大きな窓ガラス。」言いなおしている。
 書かれている「情報」は非常に少ない。わざわざくりかえさなくても、この情景を「誤読」するひとはいないだろう。
 では、なぜ繰り返したのだろう。
 「誤読」したいのだ。「誤読」させたいのだ。「情景」いがいのものを伝えたいのだ。
 秋の陽射し、大きな窓ガラス、テーブル。その「情景」の「主語」は何? 陽射し? 窓ガラス? (鈴木は「ガラス窓」という言い方もしている)それともテーブル?
 テーブルを「主語」にすると、

テーブルが、
大きな窓ガラスを通して、
秋の陽射しを届けさせる。

 と言うことができる。最後は「テーブルは/秋の陽射しを招く。」「テーブルは/秋の光を通らせる(通過させる)。」という文章も可能かもしれない。
 こんなふうに書き換えてみて「わかる」ことは、「情景」はいろいろな書き方ができるということである。そして「書き方」をかえるにしたがって、そこにあるものが少しだけ違って見える。秋の陽射し、窓ガラス、テーブルは同じなのに、視線の焦点が微妙に動く。揺らぐ。
 揺らぎながら、「大切な何か」が見えてくる。いや、「大切」が見えてくる。
 鈴木の書いている主語「陽射し」が大切なのか、それとも主語「ガラス窓/窓ガラス」が大切なのか。主語はどっち? 窓ガラスはガラス窓とも書かれているが「窓」が主役? それとも「ガラス」の方に重点が置かれている?
 その区別はない。「主語」の区別はなくて、「大切」と感じるこころがそこにあることがわかる。「大切」が「主語(主役)」のだ。いま/ここにある全てが「同等」に大切である。その「同等の大切」を書くためには、情景を繰り返して書くしかない。
 そこにある「情景」を書きたいのではなく、書きたいのは「大切」ということ--そういうふうに「誤読」させたいのだ。「誤読」を誘ってるのだ。
 「大切」を書くために、鈴木は「秋の陽射し」「窓ガラス」を離れて動いていく。繰り返し、言いなおしたものを離れてゆく。

その外は小さな庭。
野ぼたんの紫の花、
メキシカンセージの薄紫の花穂、
チェリーセージの真っ赤な小さな花、
それにまだまだ朝顔の花もかじかんだ姿で咲いている。
その小さな庭を毎朝わたしは見ているんです。

 窓から見える小さな庭。そこに咲いている花。かじかんでいる花。それを「見ること」が、「見えること」が「大切」なのだ。鈴木は、庭を、花を「大切」にしている。「それにまだまだ朝顔の花もかじかんだ姿で咲いている。」という一行の「それに」ということば、「まだまだ」ということば、思わずつけくわえてしまうことばに「大切」という気持ちがあふれている。「それに/まだまだ」がなくても朝顔の花はかじかんだ姿で咲いている。「事実」はかわらない。その「事実」を語るのに「それに/まだまだ」をつけくわえ、ほら、これも見てという気持ちのなかに「大切」が動いている。
 いいなあ、この余分。余剰。過剰。
 最初の陽射し、窓ガラス、テーブルの繰り返しも、余剰、過剰。一回言えば誰にだって情景はつたわる。けれど、ことばの順序を入れ換えて、主語を入れ換えて、もう一度言わずに入らない。「大切」なものだから、くりかえすのだ。
 「大切」なものはくりかえす。「大切」という気持ちを繰り返し、それを味わうのだ。ふたたび鈴木は書く。

深まる秋、
隣の家の屋根の上の秋の空の
低くなった太陽の
秋の陽射しが、
大きな窓ガラスを通してテーブルの上にまで届くんです。

 「届く」のは「陽射し」ではなく「大切」が届くのだ。それを受け止めて鈴木は「大切」を生きる。

新聞を拡げたわたしは
その秋の陽射しを浴びて、
わたしは記憶が呼び覚まされる。
わたしは記憶に溺れる。
秋の陽射しに溺れる。
ウンガワイヤ、ウンガワイヤ、ウンガワイヤ
テレビのアナウンサーの声が遠いなあ。

 「大切」なものを鈴木はおぼえている。秋の陽射しとともにある(あった)何かを見つめ、それをことばにした。記憶した。そういうことを「大切」におぼえている。
 テレビから聞こえる何かは、鈴木以外のひとにとって「大切」なことかもしれないが、鈴木には、それは「遠い」。「大切」ではない。鈴木に近い(届くもの/届いているもの)は秋の陽射しだ。その陽射しをとおって、鈴木は「記憶」へ帰っていく。そして「記憶」へかえっていくこと、「記憶」に溺れることが、「いま/ここ」を「大切」に生きることと重なる。



 「大切」ということばを鈴木は書いているわけではない。だから、私の書いた感想は「誤読」の感想なのだが、私はこんなふうに「誤読」する以外に読む方法を知らない。「誤読」を通して、出会ったことばを好きになる。また、鈴木が「誤読」させたかっている、というのも私の「誤読」にすぎない。しかし、こういう読み方しか私にはできない。
 ただし、「誤読」にこだわるわけではない。
むしろ 「真実(真理)」ではないとわかっているので、「誤読」を捨てたい。だから、ひとつの作品を読むと別の作品を読む。そして、自分のことばを動かし直す。違った作品を「誤読」しつづけることで、「誤読」を「中和」したいと思っている。

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鈴木 志郎康
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