野村喜和夫「眩暈原論(12)」、福田拓也「パリの燕通りにある安ホテルの螺旋状の……」 | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

詩の感想・批評や映画の感想、美術の感想、政治問題などを思いつくままに書いています。

野村喜和夫「眩暈原論(12)」、福田拓也「パリの燕通りにある安ホテルの螺旋状の……」(「hotel 第2章」73、2015年01月15日発行)

 野村喜和夫「眩暈原論(12)」は連載の完結。連載期間中、何度か感想を書いてきたが、何を書いたかおぼえていない。何が書いてあったかも、おぼえていない。いいかげんな話だが、たしかに読んだぞということだけはおぼえている。
 詩にかぎらないが、あらゆることは、だいたいそういうものだろう。
 私は、昔は野村の作品は好きではなかった。ことばのリズムがあわなかった。しかし、いまは好きである。ことばが読みやすい。リズムがあう。

だがリズムだ、リズムこそは眩暈とその固定という矛盾しきった欲望の運動の
特権的な反映である。テンポある織物のなかで、結論は拒まれている、構造は
循環的である、中心紋がひらく、きれいごとは脱臼する。またがったり、切り
刻んだりするものがふえる。

 何が書いてあるか--ということは重要かもしれないが、「意味」というのはたいていの場合、他人を動かすための勝手なものだから、私は気にしない。この詩でおもしろいのは、「矛盾」と「特権」を強引に結びつけて、それを加速させていくところである。
 「矛盾」しているから「結論」なんてどうでもいい。「結論」を「拒絶」して、逆に「構造」を見ていく。しかし、それは「解体」というよりも(解体ということばは野村は書いていない)、「脱臼」である。
 というような感じで、私は気に入ったことばをつないで、なんとなく「意味」をつくるのだが、それが野村の「意図」と合致しているかどうかは気にしない、という意味である。--意味を気にしない、ということを言いなおすと。
 だいたい作者の「意図」を正確に把握しないと作品を批評したことにならない、評価したことにならないという意見を私は信じていない。作者の言い分を正確に理解した上で、その作品が「つまらない」というようなことは、ありえない。作者の言い分を完全に理解するということは、その作者に成り代わることであって、作者に成り代わったのになおかつ共感しないというようなことは私にはできない。
 私は作者の「意図」など無視する。これはこういう意味なんだと自分の思っていること、考えていることを暴走させる。どんなに「誤読」を暴走させても、作者の「意図」を無視しても、作者の「熱意(書きたい気持ち/ことばにしたい気持ち)」が伝わってくるのがいい作品なのだ。作者の思っていることなんか私とは関係がないのに、読むと驚かされて、そこにひっぱられていってしまうのがいい作品、そして作品のなかで自由気ままにあれこれ遊べるのがいい作品である。私の「理解」が「誤読」であっても、そんなことは関係がない。私がどんなに「誤読」を書きつらねても、その「誤読」を突き破って動いてくる、私を動かしつづける作品が、私は好きだ。
 野村の「眩暈原論」が読みやすいのは、ここに書かれていることばの暴走が、暴走でありながら「日本語」を引き継いでいるからである。「脱臼」ということばがでてきたが、「脱臼」させながら、完全な解体(ばらばら)ではなく接続を感じさせるからである。

喪だし藻だしね、沈黙の吃水が迫っているのだ。

 「喪/藻」の反復は那珂太郎(もももももももも……)を思い出させるが、「もだし」「もだす(黙す)」「沈黙」という具合にことばが変化していく部分に触れると「日本語が共有されている」という感じになる。それは野村の「限界」であるという見方もあるかもしれないが、私は、「共有」をふくまないものにはついていけない保守的な人間なので、そういうものをしっかりとつかんでいる日本語を「いいなあ」と思う。楽しいと思う。「限界」とは感じない。



 福田拓也「パリの燕通りにある安ホテルの螺旋状の……」は、

パリの燕通りにある安ホテルの螺旋状の階段を、あれは右回りだったか
左回りだったか、確か左回りに旋回しつつ上り最上段の炉床に身を横た
えるとガラス張りの青空が見える、その青空がむくむく盛り上がったか
と思うと見る見るうちに青空の記号として分解され炉床の灰となって青
灰色に静まる、

 とはじまる。何が書いてあるのかは、野村の「眩暈原論」とは違って部分部分が具体的であるだけに、よけいにわけがわからない。「むくむく盛り上がった」「見る見るうちに」というような古くさい常套句を「日本語が共有されている」と言っていいかどうか、私は、まあ、悩むね。そういうことばを捨て去って、それでも「共有」を感じさせるものが詩なのだと思うけれど。
 この詩は「パリの安ホテル」からはじまり、「江戸川台の家」へ移り、さらに「頭蓋」骨や「亡霊」の世界へと行ってしまうのだが、その切断と接続の部分に、

記号として分解され

 というような「抽象(論理)」が強引に割り込んでくる。

記号の森

文字を構成する

痕跡の図式

 前後を省略して「キーワード」だけを抜き出すと、そんな感じ。ここでは世界を「記号」として把握し直すという「論理」が「共有」されている。これは新しそうに見えて、そうではないかもしれない。
 野村の「喪だし藻だしね、沈黙の吃水」はだじゃれの無意味さが日本語の「肉体」を浮かび上がらせるのに対し、福田の「意味」は輸入物の「頭」を浮かび上がらせる。この「頭」をどうやって「肉体」にまで育て上げるか--育て上げてしまえばおもしろいのだと思うが。この詩では「頭」が分離して見える。頭の悪い私には。

まだ言葉のない朝
福田 拓也
思潮社