笹本淙太郎「久遠へ」、粒来哲蔵「海馬よ、海馬」、那珂太郎「四季のおと」 | 詩はどこにあるか

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笹本淙太郎「久遠へ」、粒来哲蔵「海馬よ、海馬」、那珂太郎「四季のおと」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 笹本淙太郎「久遠へ」(初出『有の光芒』2014年08月)について、私は何を言えるだろうか。

森羅なる万象を鳥瞰し
未だ見ぬ銀河を尋ね
憶え得ぬ久遠へ

 私のつかわないことばが、漢字熟語のまま、並んでいる。私は日常的に漢字熟語をつかわない。カタカナ語をつかわないのと同じだ。
 漢字熟語を「見る」と私が肉体で覚えていること、ことばで言うのが面倒くさいことが、「結晶」したようにしてそこに「出現」しているような気持ちになる。私の手の届かない世界を笹本は漢字熟語でつかみ取っている。思っていることを、というよりも「思考」を、あるいは「思念」と呼ばれるようなものを書いているんだろうなあ。「あいまいな思い」ではなく、「意味」を日常の次元を超えた感じで結晶させようとしているんだろうなあ。

訥々として千古の思考を束ね
数知れぬ行為を聚め
総覧と闇路を綯い交ぜに思想となすが
有の縷々たるは可能の方途であるか

 これは「聞いて」もわからないなあ。目で「漢字」を見ながら「意味」を考える必要がある。「集め」と「聚め」は耳で聞く限りは同じ「音」だが(同じだと私は思うが)、漢字の表記は違う。その違いのなかにも笹本は「意味」をこめているんだろうなあ。
 「思考を束ね」「思想となす」という表現があるが、「思考」を「漢字」をとおして「思想」にまで作り上げる、鍛えて育てる。そういうことを笹本は「肉体」にしようとしているのだろう。
 私の「誤読」になるのだろうが、(というより「誤解」かも……)、こういう書き方は何か「漢字(表意文字)」がもっている「意味」に頼っているような気がする。別な言い方をすると「漢字の意味」を信じきっているような感じがする。その、あまりにも「純粋」な信じ方が、私には、ちょっとこわい感じで、知らず知らず身を引いてしまう。「立派な思想詩(哲学詩)ですね」と言って、あとは知らん顔をしてしまう。



 粒来哲蔵「海馬よ、海馬」(初出『侮蔑の時代』2014年08月)。粒来も「漢字」を利用している。しかし、その「利用」の仕方が笹本とは違う。

 妻は私に隠れて余程以前から海馬という馬を飼っていた
らしい。河馬ならばともかくも、海馬となると並の図鑑に
は載っていない正体不明の馬だから放っておいたが、妻が
老いると海馬も老い、人馬共に老耄を託ちながら共々に得
体の知れぬ生物に変貌しつつあるようだった。

 「海馬」は脳の一部。アルツハイマー病が起きるとき、最初に海馬が変化すると言われている。こういうことは最近はニュースで言われているので、海馬が実際に脳のどこにあるのか知らない人もなんとなくわかっている。
 この「海馬」から粒来は「馬」を取り出す。さらにその「馬」に「海」ではなく「河」をくっつけて「河馬」にしてみる。これは、まあ、なじみのある動物だ。動物園へ行けばたいてい、どこにでもいる。映像でもよくみかける。
 この「海馬」と「河馬」の比較(?)は、本来の「海馬」の「意味」からすると「ずれ」ている。間違っている。間違っているのだけれど、この間違いは、人を引き込む「ほんとう」をもっている。
 私たちは(私だけかもしれない。知らないことは調べればわかる、なぜ調べないと最近もある人から叱られたばかりだ)、知っていることを頼りに、勝手に「考える」。「覚えている」ことを思い出しながら、その「覚えていること」を動かしてみる。そして、「誤読」する。
 「海馬」は「馬」か。「海の馬」は知らないが「河の馬」なら知っている。カバは「河馬」と書く。馬というより巨大な豚に近い感じがするが、太った馬と昔のひとは考えたのか。豚よりも馬の方が身近に感じる人が「河馬」という表記を思いついたのかもしれない。--ということはおいておいて……。「馬」なら生き物である。生き物なら、年を取ると徐々に変化する。
 そうか、脳のなかに生きている「馬」が変化すると、脳そのものも変化して、人間も変わっていくのか。

 妻の寝息の中に、時々海馬の嘆き節が混じるようになる
と、妻の言動に乱れが出始めた。

 これはアルツハイマー病が発症したことを書いたのだろうけれど、「馬」が「妻」のなかで変化し、それが妻の肉体を動かしているという感じが、「肉体」そのものに響いてくる。
 人間の肉体のなかに生きている動物が人間の理性の支配を離れて野生を生きはじめる--これは肉体の衝動、本能の目覚めのように響いてくる。とても生々しい。
 「意味」(つまり、医学的な述語の世界)からみると、こういう「誤読」は「間違っている」のだが、「間違っている」方が「肉体」には納得しやすい。脳のなかで海馬がどのように萎縮し、それが神経にどのように作用し、言動が乱れるかということを医学述語で正確に言われたとしても、何のことかわからない。どこまで調べれば「理解」できるのか、「理解」したことになるのか、見当がつかない。それに、「医学述語」は時代と共に変化していく。きょう正しいと言われていることが、ある日、新発見によって覆ることがある。そういう「日常の理解」を超えた世界を「正確」に知るよりも、自分の「肉体が覚えていること」を頼りに生きた方が、生きるということを納得しやすい。人間の野性が動きはじめるの方が、自分の覚えていることとつながりやすい。
 妻はだんだん「馬」になりつつある。妻が「馬」になるから、「馬」と生きればいい。「馬」には「馬」の「能力(可能性)」がある。
 詩の最後で、「妻」が「白い小房の花」にみとれる。

  私はその小花を知っていた。馬酔木だった。海馬はつ
とにこの花に酔ったのだ。妻とはいわず、海馬よ海馬……
と口籠もりながら、私は妻の背を叩いて覚醒を促した。妻
の目にうっすらと馬影が映っていた。

 この詩の美しさは、「海馬」ということばの「意味」の不正確さから生まれている。「海馬」の「誤読」から生まれている。野性、本能にたいするいたわり、やさしさが生まれてくる。「意味」は自分で捏造するものである。そのとき動く「肉体」が詩である。「意味」を破壊し、別の「こと」をつくり出していくのが詩である。



 那珂太郎「四季のおと」(初出『宙・有 その音』2014年08月)。那珂太郎は、粒来とはまた違った形でことばを「解体」し、「再構築」する。「春」の部分。

ひらひら
白いノートとフレアーがめくれる
ひらひらひらひら
野こえ丘こえ(まぼろしの)蝶がとぶ
ひらひら
花びら(の)桃いろのなみがだ舞ひちる
ひらひらひらひら
ゆるやかな風 はるの羽音(はおと)

 粒来は「海馬」から「馬」を独立させて、「誤読」を加速させた。那珂は「文字」ではなく「音」を独立させ、音を「誤読」し、音を暴走させる。ただし、「暴走」とはいうものの、那珂の場合、日本語の伝統への意識(意味への脈絡)が非常に強い。どんな「音」もそれぞれに「文化的背景」を持っている。その音(ことば)が、どのようにつかわれてきたかという歴史をもっている。那珂は「自由」なようであって、でたらめではない。その伝統(意味)をしっかり踏まえている。
 「ひらひら」ということば。それは日本語の歴史のなかで、どうつかわれてきたか。「ひらひら/めくれる」「ひらひら/とぶ」「ひらひら/まう」。「ひらひら」は「うすい」。「うすいもの」、たとえば「ノート」「フレアー(スカート)」「蝶の羽」「花びら」。那珂のことばは、ほんとうは「暴走」していない。
 これは「なみだが舞ひちる」をよくみるとわかる。涙は「流れる」。あるいは「こぼれる」。しかし、「流れる」「こぼれる」という「動詞」は「ひらひら」とは相性がよくない。「ひらひら/流れる」「ひらひら/こぼれる」とは、よほどのことがないかぎり言わない。「きらきら/流れる」「さらさら/流れる」「ちらちら/こぼれる」。どのことばにも、それぞれの相性が合って、相性の合うものと結びつく。そしてその結びつきが「感覚の意味」になる。那珂は、この感覚の「意味」を「音」のなかでつかみとっている。それを自立させ「音楽」に高めている。
 ことばのなかの「音」が「音楽」にまで結晶すると、そこからおもしろい現象も生まれてくる。「音」が「意味」を超えて、別なものになる。粒来が「海馬」から「馬」を独立させて別なものにしたのと似ているかもしれないが……。
 たとえば「四季のおと」は「四季の音」であると同時に「四季ノート」であり、「はるの羽音(はおと)」は「はるのハート」でもある。那珂は「羽音」にわざわざ「はおと」とルビを打っているのだが、これは「羽音」を「はねおと」と読んでしまっては「ハート」にならないからである。



宙・有その音
那珂太郎
花神社