御庄博実「目を取り換える」(初出「いのちの籠」26、2月)は「意味(メッセージ)の強い作品。
目を取り換えて いま見えてきたものは何か
曖昧な画像と 混迷する原発隠し
曖昧な活字と 曖昧な報道の裏側
首相自らトップセールスを続ける「原発」
与野党協議と言う秘密保護法案
戦争への地均しが 報道管理のもとで進んでいる
二〇二〇年のオリンピックに浮かれていいか
国家安全保障(NSC)と言う外国への軍事派遣でいいか
TPP参加と言う この国の基本を突き崩していいか
目を取り換えろ
過去を振り返って未来を見つめる目だ
日本の近現代史をめくりなおさねばならん
戦争への道のヴェールをはがせ
主張はわかるが、これでは安倍政権に利用されるだけだろう。「過去を振り返って未来を見つめる」、その結果「秘密保護法」が必要、「NSC」が必要という安倍は言っている。さらに原発再稼働が必要、オリンピックが必要と言っている。そして、多くのひとが民主党に期待していた「目を取り換えて」、安倍を見つめている。
「目を取り換えろ」というだけではだめなのである。「目を取り換える」と何が見えるかを具体的に書かないと、他人には御庄の「見えているもの(見ているもの)」が見えない。
今回の選挙で、民主党は安倍政権の嘘を攻撃していた。雇用者が増えているというけれど、正規雇用が減り非正規雇用が増えている。その結果、雇用者の総数が増えていると説明している。それは正しい。けれど、その先をもう一歩、攻撃しないといけない。正規雇用を減らし非正規雇用を増やすことで、企業の利益はどうなったか、を数字で示さないと批判にならない。50万円で正規雇用者50人をかかえている企業が、雇用形態を見直し正規雇用20人(1人60万円)非正規雇用40人(1人20万円)にした場合、会社の支払い賃金は50万円も節約できる。そういうことを明確にしないと、「正規雇用の賃金は増やしました、雇用者総数は増やしました、これで景気回復への期待できます」という論法に飲み込まれてしまう。
「目」というのは「思想」であり、「思想」とは具体的なもの(ひとの数、賃金など)でできている。それは具体的に指摘しない限り、見えない。
先の簡単な算数のつづきを書くと、節約した(50万円)はどこへ行ったのか。単に会社のオーナーが儲けただけなのか。そこから自民党へいくら流れたのか。そういうことまで追及しないと、「事実」はわからない。私は説明を簡単にするために「50人」という数字を例にしたが、これを「1000人」「3000人」にしたらどうなるか考えると、アベノミクスの本質が見える。格差拡大の「構造」が見えてくる。一般市民には調べられないことを資料をそろえて分析し、問題点を明確にするのが「国会議員(政党)」というものだろうと思う。
あんな甘い追及の仕方だから、多くのひとが民主党を見限ったのだ。
脱線したが、「目を取り換えろ」では、「メッセージ」にはならない、と私は思う。「意味」を伝えているつもりだろうが、具体的事実がないので、そのまま安倍政権に利用されてしまうと私は思う。
*
稲川方人「やわらかいつちをふんで、」(初出「花椿」3月号)を読みながら不思議な気持ちになった。
私は稲川の作品は苦手である。どの作品を読んでも、さっぱりわからない。ただし平出隆の作品を読んだあと、つづけて稲川の詩を読むと、「わかる」。「わかる」というよりも、あ、こんなことばの動かし方は平出のことばの動かし方から見ると「天才の仕事」に見えるだろうなあ、と「感じる」。平出のことばの動きが私の「肉体」のなかに残っていて、それが鳴り響いているときは、わからないのに「稲川のすごいなあ」と思ってしまう。
どんなことばのなかにいたか、何を読んだあとか、ということによって詩の感想は違ってしまう。
で、今回、御庄の「メッセージ」を読んだ直後に稲川の詩を読むと、それこそ「目が取り換えられた」ように新鮮に、美しく見える。センチメンタルな感じがくっきり伝わってくる。
草むらから若い花を摘んで声をあげた僕の母は
坂道の空の 遠い蜃気楼 一途にプリズムの
よう
母のくれた小さなガラス玉が
ずっと向こうの夜へ転がって行くから 僕は ね
光りの射す絵の中に もうすぐ帰ろう
「若い花」を摘んでいるのは「若い」母だろう。したがって「僕」もそのときは「若い(幼い)」。いまはその記憶が「ずっと向こうの夜」のように遠い。「僕」はその記憶を思い出している。そして、そのことを「記憶(光の射す絵)」の中へ「帰る」という動詞で語り直されている。
へええっ、稲川ってこういう詩を書いていたのだっけ?
私は稲川の詩は何も覚えていない。苦手だなあ、という印象だけを覚えているので驚いた。
驚きながら、少し気持ち悪くも感じた。特に「ずっと向こうの夜へ転がって行くから 僕は ね」の、一呼吸おいたあとの「ね」の音が不気味である。そんなふうに粘っこく「肉体」を押しつけてこないでほしい、と身構えてしまった。センチメンタルは「精神」のなかだけを走り抜けるとなつかしい感じがするが、そこに「肉体(なまの声)」がからみついてくると、何だか気持ちが悪い。
これは、単に私の「好み」の問題なのだろうけれど。
*
稲葉真弓「金色の午後のこと」(初出『連作・志摩 ひかりへの旅』3月)は一瞬一瞬過ぎ去る「とき」のことを書いている。--その「とき」を稲葉は、「均一」に流れるものと要約している。ふつう、こんなふうに「要約」してしまうと味気なくなってしまうのだが……。
ぽかんと口を開いていた午睡のときにも
ときは均一に流れていて
ああ なんてのんきだったんだろうと思っても
もう遅い あの幸福な午後
かといって午睡以外になにができただろう
半島の庭のスズメたちの優しいついばみに魅入る目が
いつしか眠りに誘われたからといった
浜尾さんちのクレソンが一気に伸びた朝も
ビニールハウスのなかにときは流れ
窓辺にメジロの素早い飛翔が見えた朝も
翼はときの重力を必死にかきまぜていたのだ
具体的に「スズメ」や「クレソン」「ビニールハウス」「メジロ」が書かれているので、その「均一」がそれぞれ「個別」に輝いて見える。「均一」は実は違うものの存在を意識するときに、その「奥」に存在するものとして見えてくる。「均一」というような「観念」は肉眼では見えないが、それがスズメ、クレソン、ビニールハウスという個別のものを凝視するときに、目をつきやぶって動く。
そうか、稲葉には、スズメやクレソン、メジロの動きが見えるとき、この世界をささえている「とき」が見えるのだとわかる。
稲葉の「目」を感じる。「肉眼」を感じる。それは稲葉の「肉体」を感じるということ、「思想」を感じるということ。
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