ナボコフの密会--小倉金栄堂の迷子
明かりをつけた瞬間、闇が影の形になった。さっと集まってきて、ぱっと放射状に散った。ひっぱった紐の反動で光が揺れるので、テーブルの向かいの男の顔では、頬の輪郭から骨の形がはみ出し、鼻の脇では影が耳の近くまで流れた。醜い顔がいっそう醜くなったが、そう思ったことを気づかれたのだろうか。鏡のように反射する眼鏡の奥で、目が黒く光った。
その日広げられたのは箱入りの本で、背表紙の横幅が五センチを超すものだった。男が開いたページからは古い煙草が匂った。縁が黄ばんだ斑点のようなものがあるのは、煙草で汚れた指でページをめくったからだと思うと、目を近づけて活字を読むのが苦しい感じがした。
「ケースの角が擦り切れてけばだっていますね。私はこんなふうになじんでしまった本に触れると、悲しんでいいのか、喜んでいいのか、わからなくなります。複雑ということばの定義を問われたとき、そう答えたらフランス語の教諭が笑いました。私のフランス語が奇妙で意図しない意味になったからかもしれませんが……。」
初めて参加してきた女が許可される前に口を開いた。やわらかさを装った声が電球の表面にぶつかり、細い直線になって飛んできた。嫌悪が足の裏から上ってくるのがわかった。きょうは何も言わずに帰ろう。きょう聞いたことばのすべては忘れてしまおう。見えない手で耳をふさいで立っていた。
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「リッツッス詩選集」(作品社、4400円、中井久夫との共著)とセットの場合は4500円
「谷川俊太郎の『こころ』を読む」「リッツッス詩選集」「雨の降る映画を」三冊セットの場合は6000円
です。