「妄執 1」は「作家故梅崎光生氏に」というサブタイトルがついている。私は梅崎光生の作品は読んだことがない。知らないことには触れずに、「妄執 1」を読むと、気になることがある。
最初に蔓と木のことが書いてある。
妄執は人を殺す。たとえば熱帯のある種の蔓は、恰好の巨木の幹
に凭りながらそれを巻き、巻き攀じて成長し、身をひねり、ねじり
にねじって遂に宿主の巨木を悶死させるという。
腐ったまま菌類の餌食と変り果てた巨木の骸の洞から、どうかす
ると当の蔓の新芽の葉先が、木洩れ日を浴びてくねくねと体をくね
らせながら、なおも新たに身を委ねるに適わしい頃合の樹幹を探る
姿勢を見ると、それはもはや妄執としかいいようがない。
これは大変美しい描写だ。美しいというのは、そこに書かれていることを超えて、それ以上のことを思うからだ。巨木と蔓のことが書いてあるだけなのだが、それが人間の姿に見えてしまう--人間の姿が見えたとき、そしてそれが「裸」の人間の姿だと、私は美しいと思ってしまう。「裸」というのは本能むき出しということである。ただ本能のままに生きている無防備の強さを私は美しいと感じる。
だから、このあと詩が、
見るがいい、新芽の葉先はまるでどこそこの女の光る舌のようだ。
もしかすると巻かれ巻かれて巨木は愉悦のうちに倒壊したのではあ
るまいか……。
とつづくとき、いままで読んできたことが男と女の愉悦の行為のように思える。果てた後もなあ、さらなる愉悦を求めてうごめく本能、愉悦によってめざめた愉悦を見るような感じになる。こんな本能なら知らなければよかった、知ってしまったらもっと追い求めたくなる本能ならば。いや、まだ知り尽くしてはいない、知り尽くすまで追い求めなければ本能を生きたということにはならない。
で、私はその先、どうしても男と女のことが書いてあるのだと思ってしまう。書いてあってほしいと思うのだが、ここから先が違うのである。
一行空きのあと、詩は一転してルソン島をさまよう兵士のことを書きはじめる。彼は歯ブラシを大事にしている。いつでも歯を磨かずにはいられない。食べるものがなくなり、人肉を食う。食うが、体のなかの何かがそれを吐き出させる。吐いた後、男はさらに歯を磨く。
そうやっているうちに、男は捕虜になる。缶詰の空き缶を差し出して米軍の給仕を受ける捕虜たち。それを自分の姿として見るようになる。
その最後の段落。
月夜だった。鎌の形の月の下で男は歯を磨かねばと思った。男は
上衣の内ポケットから歯ブラシを取り出そうと幾分身をかがめ、手
間どりながらも歯ブラシを引き出そうとした--がその時、俘虜監
視の米兵が、男が拳銃を取り出す仕草と見てとった。彼の銃が鳴り、
男の手の中のうす青い歯ブラシの柄は粉砕した。弾丸は男の胸を貫
き、男は血反吐を吐いて死んだ。米兵が来て男の屍を見下ろしてか
ら靴先で男を転がした--歯は磨けずじまいだった。
男は歯を磨くことに固執した。そのために米兵から銃殺された。--このことと、最初に書いてあった蔓と巨木、巨木と蔓の関係がうまく重ならない。私のなかでは、何かがすれ違ってしまう。
男にとって歯ブラシとはなんだったのか。蔓だったのか、巨木だったのか。男が巨木で歯ブラシが蔓だったのか。あるいは男が蔓で、歯ブラシが巨木だったのか。たぶん、こういう区別は無用なのだろう。区別がなくなっているのだ。
セックスも、愉悦の瞬間、誰が誰であるかわからない。エクスタシーは自分からでてしまうこと。もう自分ではないのだから、それが誰であるか問うてもはじまらない。
男が歯ブラシであり、歯ブラシが男なのだ。ほかには何もない。男と歯ブラシは、蔓と巨木を区別のできない「一体」とした、役割分担をしないまま「演じている」。「寓意」を生きている。
引用しなかったが、ルソン島をさまよう途中に、
男は歯を磨いた--というより口中でカチカチと歯
列をたたく歯ブラシの健気さに己の位相を確かめた。
という文が出てくるが「健気さ」と「己の位相」が「ひとつ」であるように、「寓意」のなかで「男」と「歯ブラシ」が区別のできないものになっているのだ。
ルソン島をさまよっているとき、男は「愉悦」を生きているわけではない。けれど、男と歯ブラシは「愉悦」と同じものを生きていたのだ。「一体感」を生きてきた。--一体であることによって、互いを支えあって生きてきた。「片方」だけでは生きていけないのだ。
読み返し、自分のなかでことばを動かし、考えると、そういうことがわかる。そして、これはすごい詩だと思うのだが、私は何かが怖くて、その「すごさ」の中へすーっと入っていくことができない。
粒来が抱え込んでいる「怨念」のようなものに身がすくんでしまう。
これを、私は受け止めなければいけないのだろうか。
うーん、わからない。
最後の一文、「歯は磨けずじまいだった。」も、すごいなあ。
「男は」歯を磨けずじまいだった、のか。あるいは「歯ブラシは」歯を磨けずじまいだった、のか。
常識的な「意味(文法)」にしたがえば、「男は」かもしれないが、「男」はすでに「歯ブラシ」と一体になっている(区別できない存在なのだから)、「歯ブラシは」とする方が、「妄執」に近いだろう。その「歯ブラシ」は、倒れた巨木から新しく芽生えた歯先のように、別な「男」を探しはじめる。
そして、その探し当てられた「男」が粒来なのだ。
だから、こうして詩を書いているのだが--と感想を書けば書くほど、何か、怖くなる。こんなすごい詩、こんなほんとうのことを書かれては困る、と臆病な私は思ってしまう。歯を磨くことがこわくなる。歯を磨くことが自分を生きる唯一の生き方になってしまうのは、こわいことだ。
だが、極限では、そういう生き方しかできないのか。
--これだな。私が「怨念」と感じてしまうのは。そういう「極限」を強いたものへの激しい怒り。怒りと読んでしまうと「既成の、流通の感情」になってしまってこわくないので、私は「怨念」と呼ぶ。粒来の書いているものを。
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