「サロメ」は「サロメ」のその後を描いた作品である。ヨハネの首を皿に乗せてあらわれたサロメに、
「サロメよ」と若きソフィストは答う。
「われは汝のこうべを望みしが」
と戯れに言うに、
翌朝 サロメの侍女 足早に来たる。
ソフィストの愛人の亜麻色髪のこうべを
黄金の皿に載せて持ち来たる。
されど思案中のソフィスト
昨日の望みを忘却し果ており。
中井久夫は、この詩では「口語」をつかわずに「文語」風の表現をつかって訳している。口語のなまなましさ、主観の強さが消え、それがソフィストの「詭弁のことば」、実感のとぼしい上っ面だけのことばを強調する。
「戯れ」ということばで中井は念を押しているが(本文もそうなのかもしれないが)、この「戯れ」と「文語」風のことばが響きあう。「本気(主観)」ではないものを表現するには、「文語」の方が似合っているのかもしれない。「主観」ではない、だから「戯れ」、だから「嘘」。
「戯れ」とは知らずに、サロメは、ほんとうに自分の首を差し出す。
「ソフィストの愛人」はサロメのことであろう。--と中井は注釈しているが、私もその方がおもしいと思う。激情型のサロメは、その激情(本心/主観)そのままに、詩をかけてまでソフィストに迫る。
サロメにとっては「行為」が「口語」なのである。「主観」を明確にする方法なのである。しかし、この「口語(肉声)」としての「行為」はソフィストにはつたわらない。ソフィストは「行動(肉体)」の人ではなく、「観念」の人だからである。そして、その「観念」は「論理」で動く。
血の滴りおつるを汚らしく思いて
かれはこの血塗れの物を
目の前より持ち去れと命じ
プラトンの対話篇を読み続ける。
ソフィストは「ことば」しか読まない。サロメのこころなど読まない。
ソフィストとサロメの生き方(思想/肉体)が厳しく比較されている。
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