中井久夫訳カヴァフィスを読む(177)(未刊・補遺02) | 詩はどこにあるか

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中井久夫訳カヴァフィスを読む(177)(未刊・補遺02)2014年09月14日(日曜日)

 「雨」は長い作品である。途中から女がでてきて、誘われるように子ども、老人も登場するのだが、人間が出てくる前の部分が美しい。

小さな中庭。
やせた木が二本。
そこに水は
田園風景のパロディをつくる--。
水はふるえる枝にしたたり、
枝は地肌を露わにし、
水は根にしみとおる、
樹液の涸れかけた根に。
水は葉にながれ
雫が糸とつらなる。

 「田園風景のパロディをつくる--。」は中庭を小さな田園風景に変えるということなのかもしれない。「パロディ」のことばが、「田園」そのものを否定しているようで、何かちぐはぐな印象を与える。(ちぐはぐなものを私は感じてしまう。)
 けれど、この「パロディ」という観念性が強いことばを取り除くと、雨と自然の交流は美しい。リッツオスの刈り込まれた描写を思い出すし、俳句も思い出してしまう。
 「いま/ここ」にあるものが、あるがままに共存して生きている。
 この美しい書き出しをさらに際立たせているのが「やせた木が二本」の「二」という数字だろうと思う。「二本」あることで、そこに「対話」がはじまる。
 水は雨になって、上から下へと動いていく。一方、実際に下までたどりついてしまうと、雨はさらに地中にまではいりこむ。そしてこの水は地中までしみ込んでしまうと、こんどは根に吸い上げられ、木の導管をとおって枝のすみずみにまでひろがる。そういう対話が自然に動いている。動きが対話になっている。
 この「二」が最後で「一」に変化していくところもおもしろい。「対話」が自分一人の思考に変わっていく感じ、思考を深めていく、感覚を研ぎ澄ましていくという感じに似ている。

窓の表面のあちこちに
雫が流れ
ほそい流れがひろがって
上るかに見えてたれ下がり行き、
一つ一つがしみとなり、
一つ一つが曇りをつくる。

カヴァフィス全詩集
コンスタンディノス・ペトルゥ カヴァフィス
みすず書房

リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
クリエーター情報なし
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