「恐怖」は1894年に書かれている。カヴァフィスが三十一歳のとき。詩の形は行頭がそろっていない。引用では揃えて引用する。
主キリストさま。夜中の
私のこころを 魂を 護ってくださいまし。
名も知らぬ怪物と物の怪が
まわりを徘徊しはじめ、
その血の通わない足が私の部屋に忍び入って
私の寝台をまわり、私を覗き込むのです。
私を凝視するのです。私に見覚えがあるかのようです。
私を震え上がらせるように声を出さずに大笑いするのです。
この一連目では最後の行がおもしろい。「声を出さずに大笑いする」顔だけを「見ている」。その前の「覗き込む」「凝視」「見覚え」という「視覚」の連続。視覚が過敏になっている。視覚が聴覚を封じたのか。
この視覚は、後半では、逆に動いている。
濃い暗闇の中には私をじっと見つめている眼が
いくつもございます。わかります。……
神さま、あいつらの眼から私の身を隠してくださいまし。
目は目を呼び寄せる。--これを読むと、敏感な視力のせいで、聴覚がまひしていることがわかる。
もし、声が聞こえたら、怖くはないか。そんなことはないだろうが、聞こえた方が自然なものが聞こえないと、その不自然さが恐怖をあおる。不気味な声で大笑いして、「私」を震え上がらせるよりも、聞こえない方が怖い。ひとは想像してしまうからである。聞こえないのに、その「声」を聞いてしまうのだ。
「声」は後半で「耳」という形であらわれる。
あいつらが叫んでも話しかけても、そのいまわしい言葉が
耳にはいってきませんようになさってくださいませ。
魂の中まではいってきませんように。
眼に(視覚に)過剰反応している、聴覚も突き動かされているのだが、「耳」が登場しない方が私は怖いと思うが、カヴァフィスはどうしても「声」と「耳」を書きたかったのかもしれない。聴覚、口語嗜好のカヴァフィスが、少し顔を出しているのかもしれない、この最後の部分は。「声」は魂のなかまで入って来る強いものだ、「声」が魂を動かすのだというカヴァフィスの嗜好が。
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