中井久夫訳カヴァフィスを読む(172)(未刊18) | 詩はどこにあるか

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中井久夫訳カヴァフィスを読む(172)(未刊18)   

 「半時間」は偶然出合った男に詩ごころを刺戟されたときのことを書いている。「私はあそこのベッドに泊った」と同じように、ことばの調子が間延びしていて、いい詩とはいえないかもしれない。

あなたが私のものになってくれたことはなかった。
これからもないでしょう、多分。

 この書き出しが、特に間延びを感じさせる。過去の「事実」を書き、それから「未来」を推測している。「いま」が「過去」と「未来」との引き延ばされ、「いま」の充実がない。空漠とした感じである。愛というのはいつでも「一瞬」の充実が輝かしい。その「一瞬」が引き延ばされたのでは、おもしろいはずがない。

二言三言、僅かに近づき、そう、昨日のバーでのように。それだけです。
悲しいけれど、あきらめています。

 つづく二行も、とても間延びしている。「それだけです。」という念押しに「いま」をつかっている。そこで「いま」を消費してしまって、消費したのは自分のせいなのに「悲しいけれど、あきらめています。」と言われても、未練を感じるだけである。
 ひいき目に受け取れば、カヴァフィスは、ここでは「未練」の「声」を書いているともいえる。「未練」というのは、こんな具合に「声」になるのだ、と言っているのかもしれない。

でもミューズに仕える私めは、時にはこころの力だけで、
身体の悦びにごく近いものを創れることもあるのです。

 ここでは「未練」を説明している。「こころの力」(後半で「こころの力」を「想像力」と呼んでいる)で何かをつくること。つくってしまうこと。「身体の悦び」さえもつくってしまう。もちろん、それはカヴァフィスだけのものであって、相手の「身体の悦び」とは関係がない。自分のことだけを考えるのが「未練」というものなのだ。

いくら想像力があるといっても、
いくらアルコールの魔法があるといっても、
あなたの唇を目にしなければ--、
あなたの身体が傍になくては--。

 「いくら……があるといっても、……がなければ、(……できない)」。最後の「……できない」ということばを強要する「論理」。「論理」で説得するのは、もう愛ではない。だから、この詩はおもしろくない。

リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
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