「私はあそこのベッドに泊った」は、
あの快楽の館に行ったが
表の部屋は通り過ぎた。
とはじまる。タイトルの「あそこ」、一行目の「あの」は、ともに具体的には書かれない。「あそこ」「あの」と言うとき、カヴァフィスは「あそこ」「あの」がわかるひとに向けてことばを発している。そして、読者には、その「特定」の「あそこ」「あの」がわかる人と、カヴァフィスは「あそこ」「あの」を共有していることがわかる。つまり、ここには「秘密」があることがわかる。「秘密」の共有。
私は奥の部屋にずいと入って
そこのベッドにねた。泊まった。
具体的な描写はない。「部屋に入って、ベッドにねた。」ではなく「そこの」ベッドと指示しているのも「秘密」の共有である。「そこ」と指示することで、感覚を共有したいのだ。ベッドを思い出すときの感覚を。
口に出来ない、けがらわしいと世間がいう部屋、
そういう秘密の部屋に入っても
私はけがれぬ。汚れるというようでは
詩人、芸術家の資格はあるまい。
この四行は、「意味」が強すぎる。
「口に出来ない」「けがらわしい」と繰り返しているところがしつこいし、「けがらわしい」ものに触れて「けがれる」ようでは詩人ではないという「論理」もありきたりである。それが事実であったとしても、迫ってくるものが弱い。「論理」的すぎるのだろう。詩は「論理」を突き破って動くものであって、説明してわかってもらうものではない。
この四行に比べると、「私は奥の部屋にずいと入って/そこのベッドにねた。泊まった。」の方がはるかに力に満ちている。簡潔で、何も説明していない。「ねた」と言えば、説明しなくても「肉体」は「ねる」を思い出す。「眠る」ではなく「ねる」というとき、人は何をするか、その何かが「秘密」とはどういうことか、そういうことがすぐにわかる。たとえ「秘密」を共有しないない人間にも。このとき「だれと」は関係がない。
カヴァフィスは「秘密」を共有している人に向けて「あそこ」「あの」「そこ」と支持詞をつかって表現するのだが、そんなふうに隠して、具体的に言わない方が、「秘密」を共有していない人に「秘密」があるということを知らせる。
「論理」を否定した方が、「論理」がなまなましく伝わるのだ。「論理」があるということがわかるのだ。
![]() | リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」 |
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