北川透『現代詩論集成1』(6) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

詩の感想・批評や映画の感想、美術の感想、政治問題などを思いつくままに書いています。

北川透『現代詩論集成1』(6)(思潮社、2014年09月05日発行)

 Ⅱ「荒地」論 戦後詩の生成と変容
 五 <経験>の意味

 「経験」ということばを北川透はかなり風変わりな感じで定義しているように私には思える。

わたしは、戦争体験のような共通性にかかわるものを体験と呼び、詩人の個別性にかかわるものを経験と呼ぶことにしたい  (125 -126 ページ)

 うーん。私自身は、共通性にかかわるものを「共通体験(共通経験)」、個人的なものを「個人的体験(個人的経験)」と呼んでいる(と思う)。「共通」「個人的(個別的)」ということばがあるのに、それを省略して「体験」「経験」ということばで「共通性」と「個別性」をわけるのか……。ちょっと、ややこしい。
 人によっては「肉体」をつかって何かしたとき「体験」と呼び、「精神」をつかって何かしたとき「経験」と区別する人もいる。「一日 100キロ走破体験」「一日一冊読書経験」という具合に。(でも、私は「読書」に対しても「読書体験」とつかってしまうなあ。--というのは、まあ、北川の「論理」とは関係ないことだが。)

 なぜ、北川は、こういう「定義」をしたのか。
 先の文章につづいて、北川は書いている。

詩論のなかで、体験にしろ経験にしろ、これらのことばが詩の概念を成立させるに重要な契機をもたされたのは、わが国の詩史上でおそらく戦後になってからであり、しかも、それは「荒地」派の詩人の出現を待つほかなかったと言える。たとえば、萩原朔太郎の『詩の原理』を開いてみればよい。彼の理論構成は、形式と内容、主観と客観というような二分法的思考によって成り立っているが、しかし、その内容とか主観とかが、経験というような概念とはまったく無縁に立てられているのを、わたしたちは見ることになるだろう。(126 ページ)

 そうだったのか、と私は驚く。
 同時に、朔太郎の「形式と内容」「主観と客観」という「二分法的思考」は、北川の「体験と経験」の「二分法的思考」とは重なるのか、重ならないのか、それが気がかりである。朔太郎に「形式」「客観」と呼ばれているものが「共通体験」、「内容」「主観」と呼ばれているものが「個別経験」という具合になるのか、ならないのか。
 ことばが違うから、私の疑問はきっと無意味な疑問だと思うが、ふと、気になってしまう。
 また、北川が「形式と内容」「主観と客観」という「二分法的思考」を「理論構成」ということばでつかみ取っていることにも興味をもった。「理論」から「論理」ということばを思い出し、「理論構成」とは「論理」を動かしていくときの方法のことかな、とも考えた。
 北川はどんな「論理」であっても、それをだれかが動かしているとおりに動かしてみて、その運動の射程(運動可能領域)を確認しているが、朔太郎を読むときでも、「理論」を動かしてみて、それが「二分法的思考」であることを確認したのだと思う。確認できたから「二分法的思考」と呼んでいるのだと思う。
 このあと北川は西脇順三郎を引用し、西脇は「超自然と自然主義」という「二分法的構成」で詩のことばを見ているととらえている。そして、

<自然主義>が経験意識の世界であるとすれば、<超自然主義>は《経験を表現するのではなく、経験と相違する若しくは経験に関係なきものを表現の対象とする》世界である。西脇において、ポエジーの価値が、もっぱら経験を無化するところに求められているのは、言うまでもない。(126 ページ)

 と書いている。
 なんだかややこしくなってきたが、私は、ここに「経験意識」ということばがつかわれていることに注目した。「経験」とは「意識」なのである。
 北川が「経験」を「意識」ととらえていると感じた。
 「体験」は「共通」しているが、つまり、戦争というような人をまるごとのみこんでしまう事件は人にとっては「個別」のできごとではなく、「共通」しているが、その「共通体験」のなかであっても、「意識」は「個別的」なものであるというところから、「体験」と「経験」を分けているように感じた。
 ここから進んで、北川は、「荒地」はようするに「意識」というものを詩に持ち込んだと言いたいのだろうと、私は考えた。「荒地」の詩によって、日本の現代詩は「意識」をテーマにするようになった。そう言いたいのだろうと思った。「体験」をそのまま書くのではなく、「体験」したときの「意識」を書く。「体験」を「経験」に昇華させたものが「意識」(経験意識)ということになるのか。「意識」をどこまでも書いていこうというのが「荒地」の詩人ということになるのか……。
 そう考えたとき、しかし、私のことばは、そこで立ち止まってしまう。
 西脇について語るとき「経験」ということばは出てきたが、「体験」は出てきていない。「体験」はどこに消えたのか。

 「体験」ということばは、このあと

わたしたちが現在、詩に関する論議のなかで、体験とか経験という概念を抵抗なく用いることができるようになったことの恩恵のいくらかは、確実に「荒地」派に負っていると言わなければなるまい。( 126ペー)

 と出てくるが、その後は、やはり見えなくなる。もっぱら「経験」ということばがつかわれて、鮎川信夫の「経験とは何か」を引用しながら、北川のことばは次のように動く。

この文章で目立つ特質は、形式や方法よりも素材と経験を重視する論理が、《われわれのための倫理》を《社会の中に確立》し、《社会に対するわれわれの責任がいつも問われなければならない》文脈において導き出されていることであろう。つまり、「荒地」や鮎川信夫における経験の概念は、単にモダニズムが欠いていた経験の回復という意味ではなく、宗教やイデオロギイでは代置できない詩固有の倫理の確立という論理をともなっていたと考える必要がある。(127 ページ)

 私なりに「誤読」すると、「経験」とは「意識」であり、「意識」とは「宗教やイデオロギイとは違った倫理」ということになる。「荒地」は「荒地固有の倫理」を「経験」として表現しようとした、と北川は言っているように思える。
 それはそれで、わかるのだが(私の「わかる」は勝手な思い込みであって、「正しい理解」とは関係ない)、うーん、気になるなあ。
 「体験」はどこへ消えたのか。
 「荒地」の「経験」を「意味」を明確にしようとして、それの対立概念(?)である「体験」をどこかに置き去りにしていないか。「荒地」の詩人そのものになって「経験」にことばが集中しすぎていないか。
 これはしかし、北川が「荒地」の「理論」をそのまま動かしてみたら(つまり、「荒地」の「理論」を追体験してみたら)、そうなった、ということかもしれない。「荒地」の「理論」は「論理」として矛盾していないと確認した、ということかもしれない。

詩固有の倫理の確立という論理

 という具合に「論理」という表現が出てくる。
 北川はあくまで「論理」を見きわめようとしている。



 このあと北川は、「荒地」派の作品を引用しながら論を進めている。そのなかに「体験」ということばは「経験」と組み合わさった形で出てくるが、同時に、その組み合わせに「仮構」ということばも出てくる。
 「仮構」というのは、私の感覚では「意識(精神)」の運動である。
 これまで見てきた北川の文章から言えば、「経験」は「個人的意識」というものだから、「仮構」はその「個人的意識」をより分かりやすくする形で動くだろう(と、私は想像する。)つまり、「体験」を振り捨てて、より「経験(意識)」をより鮮明にするように動くのが「仮構」の運動であるように思える。「体験」を「仮構」によって「経験(意識)」に昇華する、あるいは止揚する?

 うーん、「体験」の「意味」は、どうなるのだろう。



北川透 現代詩論集成1 鮎川信夫と「荒地」の世界
クリエーター情報なし
思潮社

谷川俊太郎の『こころ』を読む
クリエーター情報なし
思潮社