中井久夫訳カヴァフィスを読む(170)(未刊17) | 詩はどこにあるか

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中井久夫訳カヴァフィスを読む(171)(未刊17)   2014年09月07日(月曜日)

 「テオフィロス・トレオロゴス」は史実を書いている。中井久夫の注釈によれば、「最後のビザンツ皇帝コンスタンティノス十二世パレオロゴスの一族であり、文法家、人文学者、数学者であった。一四五三年の最後のコンスタンティノポリス攻囲戦の折りはシリヴリア門を守り、最終段階では皇帝の側で勇敢に戦って倒れた。」

最後の年であった。最後のギリシャ皇帝であった。
ああ、皇帝側近の悲しい会話。
テオフィロス・トレオロゴス卿は
望み果て悲傷に堪えずして叫ばれた。
「余は生よりも死を選ばん」

 舞台の一場面を見るよう。ことばがひきしまっている。「余は生よりも死を選ばん」という文語体の響きが音をひきしめているが、なにより効果的なのが二行目の「ああ、皇帝側近の悲しい会話。」である。どんな会話か書いていない。ただ「悲しい」というそっけない形容詞がつけられている。この省略法はカヴァフィスの詩に多くみられるものだが、この詩ではほんとうに効果的だ。省略することで、テオフィロス・トレオロゴスの最後の叫びだけが「肉声」として響きわたる。「文語体」の声なのに、「口語」としてはっきり声が聞こえる。
 トレオロゴス「卿」なのだから、庶民とは違って日常的にそういう話し方をしていたのかもしれないが、その「口語」は、単に声だけではなく、その立ち姿まで感じさせる。つまり、とても「肉体的」である。
 だが、二連目はどうか。

テああ、オフィロス・トレオロゴス卿。
わが民族の多数の受難。切ない願い。
ああ、夥しい疲労--。
不正と迫害に力尽きた民族を
おんみの悲劇の十文字が要約する。

 形容詞が多すぎる。いや、名詞そのものが多いのか。ひきしまった感じがしない。
 たぶん一連目が芝居で言えば主役が動いているのに対して、二連目では主役が動いていないからである。「コーラス」が主役のいなくなった舞台で主役を描写している。主役が不在である。そのことが全体をあいまいにしている。
 コーラスは、みんなが知っている「共通体験」をことばにするのだが、そこに主役がいないときは、「観念」ではなく、違う何かが必要なのかもしれない。具体的な「もの/こと」を描写する。その描写の中から「観念」に抽象化される前の何かが動きださないことには芝居にならないのかもしれない。
 一連めだけで終わった方が詩としてはよかったかもしれない。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
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