中井久夫訳カヴァフィスを読む(168)(未刊15) | 詩はどこにあるか

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中井久夫訳カヴァフィスを読む(168)(未刊15)   2014年09月05日(土曜日)

 「ギリシャより帰郷する」にはギリシャ人ではない人々の「声」が書かれている。カヴァフィスにはほんとうに色々なひとの声が聞こえたのだ。

ヘルミッポスよ、もう近い。
船長も言ってた、まあ明後日だ。
すでに故郷の海よ。
わしらの国々の水域。キプロス、シリア、エジプト。
馴染みの水よ、愛する海よ、だ。

 「わしらの国々の水域」は、どこからはじまっているのだろう。岸が見えるときか。そうではない。「すでに」というのは故郷が近づいてきた、というより、もっと昔のことをさしているように思える。ギリシャを出港したとき、そのときから「すでに故郷の海」なのだろう。「故郷の海」をわたって「故郷」へ帰る。
 「馴染みの水」とはそれを知り尽くしているという意味だが、それはいつも夢で通い慣れている海だからだろう。「愛する海」も、こころのなかで愛しつづけてきた海のことである。

馴染みの水よ、愛する海よ、だ。

 この行の最後の「、だ。」は、「馴染みの水よ、愛する海よ」ということばが、何度も何度も繰り返されてきたことを語っている。ほら、いつも言っていた「馴染みの水よ、愛する海よ、--それだよ。」の「それだよ」ということばの短縮形が「、だ。」なのだ。念押しの「だ」。「だ」の直前の読点「、」が念押しを強調している。
 そこには共有された時間と行動がある。長い間、夢みつづけてきたのだ。この帰郷を。この海を渡ることを。
 この「長い時間」と、後半の、「外見を繕う」王様たちの次の部分の「時間」が交錯する。

ペルシャのお国ぶりが隠せないじゃないか。
隠そうとしてバカ殿どもが
使うその時間の長さ!

 王がそうなら、(バカ殿とあざわらってはいるが……)、市民もまた「これみよがしのギリシャふう」を装い生きていただろう。そのために「長い時間」をつかってきただろう。外見を取り繕ったその「長い時間」の内部で、その長さと同じだけ「帰郷」を夢みた。故郷の海を夢みた。そうやって夢みてきた海--それだ! そう叫ぶときの「、だ。」がこの詩に、口語そのままに書かれている。


リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
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