塩嵜緑『魚がきている』の詩は、ことばのリズムがとてもいい。自然に耳に聴こえてくる。耳をすまさなくても、音がくっきり聞こえる。
「聖堂」の全行。
季節は突然変わるものだと
風が教えてくれる
公演ではアブラゼミとツクツクボウシと蜩が
交互に鳴いていて
ごちゃまぜだと呟きながら私は宙を見上げる
ファーブル昆虫記には
蝉の腹の構造は教会に喩えられる
南フランスでは
鳴いて一生を終える者たちは
その生命力から幸せを招くとして大切にされている
力を尽くして鳴いていた油蝉の声が
中空に突然鳴り止んだ
この詩では3連目、「ファーブル……」が特に美しい。
なぜかな、と私は何度も読み返してみた。そして、気づいたのは、ここには塩嵜の主張がないからだとわかった。
これは、しかし、変だね。
詩は、その詩人の声に引きつけられて、あ、これはいいなあ、と思うものなのに、私はここに塩嵜の声がないと気づき、それがこの連の美しさである、いいところであると言おうとしているのだから。
塩嵜の声ではないのに、なぜ、3連目が魅力的か。
ここには塩嵜の声のかわりに、塩嵜の「耳」が書かれている。聞いたこと(読んだことかもしれないが)を、正確にそのまま自分の声に乗せて言いなおす。自分を主張するのではなく、他人を主張する。塩嵜が寄り添った他人(ファーブル)を信じて、その声をそっくり引き継いでいる。
自分を空っぽにして、無垢のまま、そこにいる。
他人(ファーブル)が言ったことを、間違えないように、正確に言おうとしている。そのために、ことばの何度も繰り返して声にしたのだろう。その繰り返しが鍛え上げる自然なリズムがここにある。
これはいいなあ。
この「他人を信じる」の「他人」を「神」に置き換えると、「聖堂」というタイトルもおもしろい。「聖堂」にいて、「神」に身を任せて、「神」から聞こえる声をただ反芻する。間違わないように、何度も何度も繰り返して覚える。その繰り返しがつくりあげることばのリズムがある。
私は「神」というものを信じているわけではないのだけれど、そう思った。
「山歩き」も、とてもおもしろい。塩嵜は男といっしょに山登りをしている。男が山登りを導いてくれる。
振り返り 振り返りして
山肌にはりついた白い石を順に指さして
足を置けと言う
山男の足は
鍵盤の指遣いのように巧く石に乗る
私は腰が定まらないから
すぐに疲れるが
相変わらず ここにと指示が出る
山の片面を登っていくうちに
前を行く男の足の動きが読めるようになった
男が振り返らなくなった
この「男」を「神」、「足」を「ことば」と言いかえるなら、「聖堂」のファーブルの部分の美しさと同じものがここにあることがわかる。塩嵜は「自己主張」(自分の声)で語ること、自分の足で山を登ることをやめ、男の足そのものになる。繰り返し、繰り返し、男の足になろうとして、そのリズムが自分のものになる。自分の「肉体」のなかで自然に動くものになる。
そうすると、男の足の動きが読めるようになる。
この「読める」はなんだろう。
「目」で読むのか。あるいは「耳」で指示を聞きとるのか。
違うね。
塩嵜の「肉体」のどことはいえない部分、体の内部で、リズムが男の足のリズムをつかみ取る。リズムを聞き、それに合わせると書けば「耳」になるし、リズムがつくりだす筋肉の動きが見えると書けば「目」が「読む」ということにもなる。
これは、いい感じだねえ。
「一体感」がある。塩嵜のことばは「一体感」とともにあることばなのだ。「他人」を正直に、そのまま自分のなかに受け入れ、その動きによって自分をととのえ直す--そのときに生まれる「一体感」。
これは、うれしい。
だから、
山歩きのお礼です
花の名を教えましょう
ほら ここに咲いているのが螢袋
山男はほおと言い
ここと指さしはしなくなったが
速度は
私にあわせてくれているのがわかった
塩嵜は男に花の名前を教える。自分の声をつたえる。自己主張する。男は「ほお」と感心して、それからまた歩きだす。そのとき塩嵜は、自分が男と「一体」になっているだけではなく、男の方も塩嵜と「一体」になるよう、速度をあわせてくれていることに気がつく。
互いに「自己主張」しない。自己主張しなくても、ひとは生きて行ける。しかも、だれかといっしょに生きて行ける。この発見は美しいなあ。
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