野村喜和夫「詩論のエートス、詩学のパトス」ほか | 詩はどこにあるか

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野村喜和夫「詩論のエートス、詩学のパトス」ほか(「現代詩手帖」2014年09月号)

 野村喜和夫「詩論のエートス、詩学のパトス」は谷川俊太郎をめぐる五冊の本を対象として書かれた文章である。そこに、私の『谷川俊太郎の『こころ』を読む』も含まれているのだが、私は野村の文章の書き出しに驚いてしまった。

 詩論と詩学と、詩をめぐる言説にはこのふたつの区域がややあるように思う。

 これに似たことは、神山睦美が阿部嘉昭の『換喩詩学』について触れた「希望もなく死んだ人々に宛てられた希望の手紙とは何か」のなかにも書かれている。

詩の批評が詩学とか詩論といったものを内にはらんでいなければ成立しない

 えっ、そうなのか。
 私は、こういう考えがあることをまったく知らなかった。なぜ詩の批評はあんなにややこしいことばかり書いてあるのか、長い間疑問だったが、そうか「詩学」「詩論」をめざしていたのか。
 あ、でも「詩学」「詩論」って何?
 野村はていねいに書いてくれているのだが、私は覚えていない。つまり、身につかなかった。私の考えていることとあまりにかけ離れているので、読む先から忘れてしまった。覚えているのは「詩学」「詩論」のふたつがあるということだけだ。

 野村の文章で印象深かったのは四元康祐『谷川俊太郎学』について書かれた部分である。

井筒俊彦の言語哲学を援用しつつ、谷川俊太郎の詩の行為の核心を、「本来分節化が不可能なはずの絶対無文節(無分節?--谷内注)--それは同時に言語の母胎でもあるのだが--を言語化する」試みと捉えるあたりは、田原とともに、この国民詩人をはじめて世界文学的視野へと解き放つ意味深いページであるといえよう。

 むむむむ。井筒俊彦の言語哲学を援用しない形で「この国民詩人をはじめて世界文学的視野へと解き放つ」ことはできないのかなあ。谷川は「未生」ということばをよくつかっているけれど、その「未生」と「分節化以前」とは、どう違うのかなあ。
 どうも、よくわからない。
 谷川以外のだれそれの哲学を援用して語ることが「学」というものなのかな? 常にだれそれの哲学と比較しないことには「学」は成り立たないのかな?
 また井筒俊彦を援用することで谷川俊太郎のことばを「世界文学的視野へと解き放つ」というのは変じゃないかなあ。
 逆は、どうなんだろう、と私はすぐに思ってしまう。
 つまり、谷川の詩を援用して井筒俊彦の「言語哲学」を解説し、井筒の考えたことを発展させたときは、いったいどうなるのかな。谷川が井筒哲学を「世界的哲学視野へと解き放つ」ことになる? それとも井筒哲学を「日本的哲学視野へと解き放つ」? あるいは「日本的哲学視野へと収斂させる」?
 私はむしろ、近所のスーパーで話しているひとの会話、バスの中で話している女子中学生の会話を援用して谷川のことばの魅力に迫った方が、はるかに「哲学的」だと思うなあ。そしてはるかに「世界的視野」だと思うなあ。どこの外国の街のスーパーへ行っても、買い物をしている顔見知りは同じように話している。どこの外国の街の電車やバスにのっても人は同じように自分に密着したこと(思想)を話している。

 野村は私の文章を「低空飛行」と呼んでくれている。
 これは、うれしかったなあ。私は「高空飛行(?)」というようなものを考えたことはない。ただ歩きたい。だから「低空飛行」というのも、まだ飛んでいることになるのだから、反省しないといけないのだが。
 私はただ歩いて、深い溝に出合ったら、思い切って飛び越すか、あるいは時間がかかっても遠回りするかだな。近くに板があれば橋を造るかもしれないけれど、最初に渡るのは飛び越すよりも怖いな、きっと。



 神山睦美の書いていることにも、私は疑問をもった部分がある。(部分だけ取り上げるのは「論理」のねじまげになってしまうかな?)

「共苦(コンパッション)」や「利他行為」への感染ということが問題となるのは、思想が意味よりも価値を、欠くことのできないものとするからなのである。

「共苦(コンパッション)」や「利他行為」ということが、思想と表現にとって最重要課題となるのである。

 「思想」を神山がどう定義しているのかよくわからないが、私の考えでは「思想」というのは「みんなが幸せになれたらいいのになあ」という願い以上のものはない。そしてその「幸せ」というのは、苦しまずに手に入るものだったら、とってもうれしい。私はずぼらだから、そう考えてしまう。「共苦」がどういうことかわからないが、「苦」という文字を見ただけで近づきたくない感じがする。--いやな思想だと思う。
 「共楽」ならいいのになあ。
 私の見方では二十世紀最大の「思想家」はボーボワールである。なぜかというと、彼女の「女も幸せになりたい。女が差別されるのはおかしい」という「思想」だけが実現した思想だからである。マルクスの思想さえ実現できなかった。共有されなかった。しかし、「男女差別は間違っている」というボーボワールの思想は、世界中とは言わないが、世界のすみずみまで行き渡ろうとしている。
 思想は、だれもが話していることばにならないと思想とは呼べないのじゃないだろうか。
 「思想が意味よりも価値を、欠くことのできないものとするからなのである」という文を読んで、「意味」と「価値」の違いをわかるひとが何人いるだろうか。

 もっとふつうの日本語で書いてくれないかなあ、と頭の悪い私は思ってしまう。



 ところで、鼎談で池井昌樹が私の書き方を「徒手空拳」と言っているんだけれど、人を愛するとき、ひとは裸になるんじゃないのかな? それから性交するんじゃないかな? もし武装して性交したら、それは強姦。まあ、器具をつかってというのもあるだろうけれど、それは嗜好の問題。ふつうは、ただ裸になる。無防備になって、愛する。
 詩の批評をするとき(感想を書くとき)も、私は裸になって、ひとのことばと向き合いたい。それまで読んできたものは全部捨て去って、そこにあることばと向き合いたい。
 頼るものが何もないから、どこへ行くかわからない。そこへ進んでいるのがいいことなのか、悪いことなのか、わからない。でも、自分にとって「気持ちいい」かどうかは、わかるな。「気持ちいい」と思った方向へ、どんどん進んで、自分がどうなってもかまわない、ただ「このひと(このことば)」についていく覚悟をすることが愛なんだから、私は「徒手空拳」と言われても、それがあたりまえじゃないの? と思うだけである。
 といいながら。
 裸になるのは難しいね。裸になったつもりでも、どこかに「隠しているもの」が残るし、裸になるとき、その服を脱ぐ手つきには誰それの手つきが入り込む。つまり、裸も実は誰それの裸を真似しているだけという恐れがある。
 どこまで脱いでも、裸にはなれない。そうわかっていても、裸になるようにこころがけたいと私は思っている。
現代詩手帖 2014年 09月号 [雑誌]
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