「アントニウスの最後」はシェークスピアの『アントニーとクレオパトラ』を下敷きにしている。シェークスピアは他人の「声」を聞く耳をもっていた。「他人の声」をそのまま芝居にしている。言い換えると、シェークスピアは「自分の声」というものを書いていない。「自分の耳」を書いていると言える。世間で話されることばを聞き、その「声」の奥に人間の「本質」を発見し、それをそのまま「他人の声」として書いている。芝居にはシェークスピアは登場せず、舞台の上には「他人」だけがいる。
カヴァフィスがシェークスピアにひかれたのは「他人の声」を書くということに引きつけられたからではないか。
社会にはさまざまな「声」があふれている。それを「声」のまま書きたかったのだろうと思う。史実から題材をとったり、今回のように古典から題材をとっているも、「意味」ではなく「声」を書きたいからなのだろう。「意味」はすでに「歴史」のなかで固定化されている。その「意味」にどれだけなまなましい主観で色付けができる。「意味」を「声(口語)」のなかへどれだけ引き込めるか。
女どもは泣き叫んでいた、
アントニウスの哀れな今を。
例の女はオリエントふうの身振り。
はしため奴隷は えびすなまりのギリシャ語。
聞くアントニウスに
自尊心がむらむら。
カヴァフィスはアントニウスにも「耳」をもたせているのがおもしろい。「えびすなまり」を聞く耳。「意味」ではなく、「意味」につけくわえられている「響き」に耳という肉体が反応し、むらむらする。
その結果でてくる「声」は、
「おい皆 嘆くな、おれのために。
見当外れもはなはだしい。
歌ってほしいのはおれの誉め歌。
偉大な支配者、
金持ち、英雄だったと讃えてくれ。
破滅はしても いやしく破滅はせぬ。
ローマ人がローマ人に負けたからには」
最後の一行はシェークスピアからの引用だが、その前に繰り広げられる「口調(口語)」の響きが剛直だ。「偉大な支配者、/金持ち、英雄」ということばは庶民にはなかなか並列していうことのできないことばである。どれかひとつになってしまう。その全部を平然と言える「声」が「アントニウスの声」なのだ--とカヴァフィスは言う。
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