「一九〇三年九月」は男色に踏み出す前の苦悩と歓喜を描いている。
せめて幻で自分をまやかしていたい。
私の人生はほんとうは虚ろだもの。
「虚ろ」なのは男色の欲望がありながら、その世界に踏み出せないからである。だから、せめて「幻(の恋)」で自分をまやかすのだが、相手は「幻」ではない。さらに欲望も「幻」ではない。
あまたたび、あれほども、あのひとの近くに、
あの官能の眼差しの、あのくちびるの、
あの、夢に現れて愛した身体の、
あまたたび、あれほどのそばにありつつ。
「あの」が繰り返される。カヴァフィスには「あの」と言えばそれだけでわかる「あの」。読者にはもちろん「あの」が具体的にはわからない。これはカヴァフィスのいつもの調子である。口調である。初期から、カヴァフィスは具体的な描写(個性的な描写)を回避して「あの」「その」で対象を描いている。
いや、対象を描いているのではない。
カヴァフィスは、自分自身の「あり方(ありよう)」を描いている。もう何度も何度も思い浮かべた。何度も何度も欲望に突き動かされた。欲望は具体的なことばなど必要としない。欲望に必要なのは肉体を動かすことである。「あれ(あのこと)」がしたい。具体的に描写する必要などない。「あの」で、自分にはすっかりわかってしまう。余分なことばをつかうと、それだけ対象が遠くなる。いちばん短いことば「あの」で「あのひと」を呼び寄せる。
自分自身の恋。欲情。誰かにわかってもらう必要などない。だから「あの」で充分なのだ。充分すぎる。
その「あの」と関係しているのだが、この詩には「あ」の音が多い。ギリシャ語ではどうなのかわからないが、中井久夫は「あ」を繰り返す形で訳している。「あ」またたび、「あ」れほど、「あ」のひと、さらには「あ」らわれ、「あ」いした、「あ」りつつ。その繰り返しは、まるでため息のようである。そしてまた、自分のため息に自分で酔っているような感じでもある。
だから、苦悩なのに、同時に歓喜の声も聞こえる。苦悩こそが歓喜を与えてくれるとわかっていて、カヴァフィスは苦悩を選んでいる。
これは矛盾だが、矛盾しているからこそ、詩なのである。
![]() | リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」 |
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