「精神の成長のためには」は男色の詩なのかもしれない。「官能の喜悦こそ大いなる教育。」という一行があるが、しかし、この詩は官能的ではない。「官能の喜悦」というのは、いかにもカヴァフィスらしい、修飾語にとぼしい、非個性的な表現だが、それ以外はカヴァフィスらしくはない。
精神を成長させんと欲する者は
すべからく服従・尊敬を卒業すべし。
二、三の法には逆らわずともよし。
他の大部分には違反せよ。
法にも習慣にも。
既成の役立たずの基準を超越せよ。
「意味」が強すぎて、おもしろみがない。
「服従・尊敬を卒業すべし」が、法や習慣への服従、尊敬というもの、まるで道徳の教科書のよう。いや、道徳の教科書は「法や習慣」に服従するな、尊敬するなとはいわないだろうが、その「服従、尊敬」の対象に、法や習慣をもってくるところが道徳的である。
どんなに「逸脱」をすすめてみても、出発点に「法、習慣」というものがある。前提が道徳的なのである。道徳を前提として、それに反することをすれば反道徳(自由)といえるかどうかは、かなり難しい問題だ。
だいたい、こういうことを言われなくても、法を逸脱し、好き勝手なことをするのが青春というものである。わざわざ書かなければならなかったのはカヴァフィスが男色以外は「既成の基準」のなかで生きていたからかもしれない。しかし、唯一逸脱する男色への嗜好、それは肉欲のためではなく精神の成長のためなのだというのは、どうみても詭弁でしかない。
破壊的行動を恐れるなかれ。
家の半ばを壊すともよし。
悠々と叡知に入る道なれば。
「家の半ばを壊す」はなんだろうか。「建物」ではないだろう。「家」のなかにおける関係、両親との関係のことだろうか。こういうことばが出てくるのはカヴァフィスが両親との関係を気にしていたからだろう。後ろめたさを感じていたのかもしれない。
「悠々と叡知に入る道」とカヴァフィスは書くが、ほんとうに「叡知」があるならば、こういうことは書かないだろう。
まだカヴァフィス自身のことばを見出していない、未熟な感じのする詩である。
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