中井久夫訳カヴァフィスを読む(156)(未刊3) | 詩はどこにあるか

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中井久夫訳カヴァフィスを読む(156)(未刊3)   

 「見張りが光を見たなら」について、中井久夫は「この詩はアイスキュロスの『アガメムノン』の冒頭より採っている。」と注釈している。「アガメムノンが王妃とその情人に殺され、長い復讐劇が開幕する。」と。
 その出だし。

夏となく冬となく
アトレウスの屋敷の屋根に
見張りが見張っていた。
今つかんだ、よい知らせ。燃えあがった遠くの火。
うれしい。単調な仕事がさあ終わる。

 この書き出しのリズムは強くて、余分なものがない。カヴァフィスの魅力にあふれている。
 ところが、そのあとがあまりおもしろくない。ことばがゆるむ。リズムにスピードがない。

待ちに待った信号が出た。それはうれしいけれど
さて出てみると 思っていたほどうれしくない。

 この、期待していたものが期待していたとおりにあらわれたために、逆に期待が裏切られたような気分になる感覚というのは、多くのひとが感じることかもしれない。けれど、これをこんなふうに「散文的」に説明されるとおもしろくない。「主観」を聞いた、そのひとの「声」を聞いたという驚きがない。

だが 余分にかせいだのは事実。希望も期待ももういらない。
さあ これからアトレウス家にいろいろ起こるぞ。
見張りが光を見た今はな。誰でも予想のつくことさ。

 「余分にかせいだ」は「よい知らせ」が出るまでの時間が長くて、つまり、見張りをする時間が長くてたくさん稼げた(予想以上に稼げた)ということを告げているのだが、「だが」という接続詞が「声」を説明してしまって、間延びする。「事実」という念押しのことばが、また、もったりとしている。
 さらに「誰でも予想のつくことさ。」という事件の暗示が、どうしようもなく余分である。詩がはじまる前に「散文」の下書きが見える感じだ。「いろいろ起こるぞ」というわくわくした興奮(主観)が埋没してしまう。
 『全詩集』に納められている詩が、演劇の一シーンそのものの緊張感があるのに、「未完詩篇」の方は緊張感がない。「散文」の下書きのようなリズムである。カヴァフィスは、こんな「習作」のようなことばも書いていたのか、と驚かされる。

リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
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