中井久夫訳カヴァフィスを読む(155)(未刊2) | 詩はどこにあるか

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中井久夫訳カヴァフィスを読む(155)(未刊2)   2014年08月24日(日曜日)

 「クローディアス王」は「ハムレット」を下敷きにしている。

甥が王を殺した理由
どうも合点がゆかぬ。
王に殺人容疑をかけたが、
疑惑の根拠といえば
何と! 古城の戦闘城楼を散策して
幽霊と会って話をしただけ。
幽霊の話が王にたいする確実な告発と
王子は思ったとさ。

 カヴァフィスがシェークスピアを好んでいることは、その詩が演劇的(芝居的)なことからもうかがえる。どの詩も芝居の一シーンのようだ。ストーリーを分断して(ストーリーはみんなが知っている)、その場面だけを取り出す。そうしておいて、そこに登場人物の「主観」を繰り広げる。ストーリーが背後に隠され、説明されないので、その「声」の強さ、響きだけが印象に残る。「声」が印象に残るように、カヴァフィスは書く。
 いま引用した部分には、しかし、その「声」はあまり強く感じられない。かろうじて「思ったとさ」の「さ」という中井久夫の訳にそれを感じるくらいである。

幻覚の発作にちがいない。
眼の錯覚だあ。
(王子は極度の神経過敏。
ウィッテンベルク大学の学友は皆、
あいつはキチガイじみたと言うよ)

 「眼の錯覚だあ」の「だあ」という口語の調子を借りて、中井久夫が苦労して「声」を拾いあげようとしている。そういう「口調」をもった誰か、そういう人間を動かそうとしている。しかし、成功しているとは思えない。
 たぶん、詩が長すぎるのだ。
 カヴァフィスは演劇的な詩を書くが、演劇そのものは書かない。ここがシェークスピアと違う。複数の「声」を聞く耳を、カヴァフィスもシェークスピアも持っているが、カヴァフィスは、その「声」を一対一のなかで繰り広げる。シェークスピアのように多数の人物を登場させ、「声」を書き分けるというとはない。
 ひとりの「声」を聞きたいのかもしれない。そのときそのときの「声」にあわせて違う世界へ入り込みたいのかもしれない。ある意味では、カヴァフィスの方が欲張りかもしれない。ひとりひとりと「情」をかわしたいという欲望があるのかもしれない。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
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