「一九〇八年の日々」は、その年に出合った二十五歳の青年のことを描いている。仕事がなくてカフェでカードをして稼いでいる。しかし勝負事は稼ぐよりも「借り」が増えていくものである。金に困って、どうするか。借りを帳消しにするにはどうするか。方法はかぎられている。
そういう惨めな生活の合間の、ほんの短い時間。
一週間かそこらだった。も少し長かったか。
あの子があのぞっとせぬ夜になんとかおさらばして、
プールで朝早く泳いで身体のほてりを冷やせたのは--。
その、ほんの短い時間に、「きみ」はあの子を見た。
きみの眼の底に残るあの子は
あの貧相な上衣を脱ぎ捨て、
つぎの当たった下着をかなぐり捨てて、
すっくと素裸で立った姿だ。
一点の非の打ちどころのない美しさ。まさに奇蹟。
櫛の入らない髪を後ろに流し、
朝ごと浜とプールで裸になった報いの軽い陽灼けの腕と脚。
この最後の描写に私は驚く。「一点の非の打ちどころのない美しさ」という表現は、繰り返し読んできたカヴァフィスの男色の相手を描写することばそのままに具体性に欠けている。ただし、貧相な上衣(色の抜けた肉桂色のスーツ)、つぎの当たった下着とは対極にあることはわかる。そして、そのあと、突然「櫛の入らない髪を後ろに流し」という具体的な描写が出てくる。
あ、初めてだ。カヴァフィスは、ここではじめて自分の愛した男を具体的に描写している。忘れられないのだ。
そのあとの「朝ごと浜とプールで裸になった報いの軽い陽灼けの腕と脚。」もカヴァフィスにしては非常に具体的な描写である。日焼けした腕と脚。それも、朝素裸で泳ぐということを繰り返したためにできた日焼け。ふつうの、日盛りの浜やペールでつくる日焼けとは違うのだ。
「きみ」が、つまりカヴァフィスが「あの子」の普通の日々の姿を知ったのは、詩に書かれている順序とは逆に、そのあとなのだろう。美しい姿を見たあとなのだろう。
「たしなみのよいきみ」は、「あの子」の日常を知らなかった。
しかし、知ってしまってからも、あるいは知ってしまったからなのか、よけいに「あの子」を忘れられない。詩集の最後を、その思い出で閉じているのも、そこに強い思い入れがあるからだろう。
誰にでも忘れることができない恋がある。
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