中井久夫訳カヴァフィスを読む(152)  | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

詩の感想・批評や映画の感想、美術の感想、政治問題などを思いつくままに書いています。

中井久夫訳カヴァフィスを読む(152)        

 「紀元前二〇〇年」は何を書いているのだろうか。

「フィリッポス王の子アレクサンドロスおよびギリシャ人、ただしスパルタ人を除く……」

ようくわかる。
スパルタ人はこの文句を全く気にしなかった。
この「スパルタ人を除く」を。
むろんだ。スパルタ人は高等小使じゃない。
命令されてあちこち連れまわされる人間じゃない。
さらにだ、スパルタ王の率いない全ギリシャ遠征軍なんて
お笑いだ。
むろんだ、だから「スパルタ人を除く」なのさ。

 ギリシャを勝利に導く「スパルタ人」こそ「ギリシャ人」。わざわざ「スパルタ人」という必要はない。だから「スパルタ人を除く」を気にしない。
 ギリシャ人はギリシャ人で、これを逆手にとって「ギリシャが勝ったのだ」という。「スパルタ人が」とは言わない。戦そこで「スパルタ人を除く」というおふれが出る。「スパルタ人」はギリシャ人だ。
 スパルタ人は、その「論理(屁理屈)」を気にしない。人が自分のことを「スパルタ人」と呼ぼうが「ギリシャ人」と呼ぼうが関係がない。「スパルタ人」こそが戦争を勝利に導いている、戦争を勝利に導くのが「スパルタ人」であるという自負かあるのだろう。
 だが、それをいいことに、次々と戦争に勝ちながら「スパルタ人を除く」を繰り返す。そして世界が「ギリシャ語」に制覇されていく歓喜に酔う。世界をギリシャ語が支配していく喜びに酔う。

我等の一頭地を抜いた覇権、
正義のもとに統合された柔軟な政策、
我等の共通ギリシャ語、
こういうものをバクトリア、インドまで運んだ我等。

こうなったらスパルタ人など、誰が問題にするか!

 その果てに、突然、「スパルタ人を除く」が消えてしまう。「スパルタ人」がいなくなってしまう。すべてがギリシャ語を話すがゆえに「ギリシャ人」になってしまう。しかし、そうなるとこんど戦争があったときはどうなるのだろう。誰がギリシャを勝利に導くのか。ここに、敗戦の「予兆」のようなものが書かれている。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
クリエーター情報なし
作品社