「紀元前二〇〇年」は何を書いているのだろうか。
「フィリッポス王の子アレクサンドロスおよびギリシャ人、ただしスパルタ人を除く……」
ようくわかる。
スパルタ人はこの文句を全く気にしなかった。
この「スパルタ人を除く」を。
むろんだ。スパルタ人は高等小使じゃない。
命令されてあちこち連れまわされる人間じゃない。
さらにだ、スパルタ王の率いない全ギリシャ遠征軍なんて
お笑いだ。
むろんだ、だから「スパルタ人を除く」なのさ。
ギリシャを勝利に導く「スパルタ人」こそ「ギリシャ人」。わざわざ「スパルタ人」という必要はない。だから「スパルタ人を除く」を気にしない。
ギリシャ人はギリシャ人で、これを逆手にとって「ギリシャが勝ったのだ」という。「スパルタ人が」とは言わない。戦そこで「スパルタ人を除く」というおふれが出る。「スパルタ人」はギリシャ人だ。
スパルタ人は、その「論理(屁理屈)」を気にしない。人が自分のことを「スパルタ人」と呼ぼうが「ギリシャ人」と呼ぼうが関係がない。「スパルタ人」こそが戦争を勝利に導いている、戦争を勝利に導くのが「スパルタ人」であるという自負かあるのだろう。
だが、それをいいことに、次々と戦争に勝ちながら「スパルタ人を除く」を繰り返す。そして世界が「ギリシャ語」に制覇されていく歓喜に酔う。世界をギリシャ語が支配していく喜びに酔う。
我等の一頭地を抜いた覇権、
正義のもとに統合された柔軟な政策、
我等の共通ギリシャ語、
こういうものをバクトリア、インドまで運んだ我等。
こうなったらスパルタ人など、誰が問題にするか!
その果てに、突然、「スパルタ人を除く」が消えてしまう。「スパルタ人」がいなくなってしまう。すべてがギリシャ語を話すがゆえに「ギリシャ人」になってしまう。しかし、そうなるとこんど戦争があったときはどうなるのだろう。誰がギリシャを勝利に導くのか。ここに、敗戦の「予兆」のようなものが書かれている。
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