中井久夫訳カヴァフィスを読む(150) | 詩はどこにあるか

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中井久夫訳カヴァフィスを読む(150)        2014年08月19日(火曜日)

 「世話をやいてくださっていたら」には下卑た「声」が満ちている。

しかし私は若くて健康。
ギリシャ語はペラペラ。
アリストテレスとプラトンを読みに読んだ。
詩人、雄弁家、いや何でも濫読さ。
軍事も少しわかる。
傭兵将校に友だちがいる。
行政の世界にも足がかり。

 ここには、いろいろな自慢が書かれているが、自己というものがない。「傭兵将校」「政治の世界」に、友だち(顔見知り)がいる。接近の方法がある。それは「私」自身で道を切り開いていくというよりも、誰かのひきあいで、その世界へ入っていくということだろう。「下卑た」感じがしてしまうのは、「他者頼み」の印象が強いからだろう。

まずザビナスに接近だ。
あのアウホが私を高く買わぬなら、
あいつの敵のグリュポスだ。
あの鈍物がおれに地位をくれぬなら、
その足でヒュルカノスさ。

 この詩の登場人物は、彼自身の「理想」をもっているわけではない。何かがしたいわけではない。--いや、したいことはある。「地位」を手に入れたい。「地位」が手に入るなら、何をしてもいい。
 「あのアホウ」「あの鈍物」という評価をしながら、「地位」だけを欲しがっている。こういう「欲望」が「下卑ている」。
 だが、それがどんなに下卑ていようとも、そういう「声」はたしかにある。そういう「声」もカヴァフィスにはしっかり聞こえた。そして、聞こえただけではなく、何かしらの魅力も感じていたのだと思う。その場限りの欲望がむき出しになった「声」。その「声」を発するものの「肉体」。それが見えたのだろう。

誰を選ぶか、気にしない。
おれの良心は痛まぬよ。
三人ともシリアの害虫。同等さ。

 「良心は痛まぬ」、なぜなら「三人とも害虫」だから。--そのあとの「同等」がなまなましい。三人が「同等」なら、そのときの「私」もまた「同等」である。この「同」は「同性愛」の「同」と同じである。「同じ」ものが互いを呼びあい、必要としている。

リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
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