中井久夫訳カヴァフィスを読む(147) | 詩はどこにあるか

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中井久夫訳カヴァフィスを読む(147)        

 「同じ空間で」も男色の詩である。ただし、ここには相手の男は出て来ない。「空間(家々、カフェなど)」が出てくるだけである。短い詩だ。全行を引用する。

家々、カフェ、そのあたりの家並み。
歳月の間にけっきょく歩き尽くし、眺めおおせた。

喜びにつけ悲しみにつけ、私は刻んだ、きみたち家々のために、
数々の事件で多くの細部を。

私のためでもある。私にとってきみたちすべてが感覚に変わった。

 これは多くのカヴァフィスの男色を描いた詩と同じように、感想を書くのが非常に難しい。「小説」なら「数々の事件」「多くの細部」を丁寧に書くだろう。詩も、そういうものを書くのが普通である。自分が体験した「独特のもの」、自分だけの視点をことばにする。そうすることで、体験が「自分の感覚」になる。そして、その「感覚」をこそ、読者は読むのである。自分ではつかみきれなかった「感覚」を詩人のことばをとうして、「あ、あれはこういうことだったのか」と遅れて発見する--それが詩にかぎらず、あらゆる文学との出会いである。
 ところがカヴァフィスは、彼自身の「独自の感覚」を少しも書かない。「感覚に変わった」と書くだけなので、そこにあるであろう「街」とカヴァフィス自身のなかの「感覚」がどういう関係にあるのか、読者にはさっぱりわからない。
 ただカヴァフィスが、その「街」で体験したことを自分の経験にしたという「こと」を抽象的に知るだけである。その「街」で長い年月をすごした。その街を歩き回った。家は安い宿かもしれない。そこでカヴァフィスは自分の体験を豊かにしただけではなく、他人の引き起こす事件も見たのだろう。間接的な体験だ。そういうものも含めて、街のどの部分を見てもカヴァフィスは、その「とき」を思い出すことができる。
 ある意味で、カヴァフィスは男色の相手と恋をし、セックスしただけではなく、その街(安宿やカフェ)そのものともセックスをしたと言えるのかもしれない。「家々」のことを「きみたち」と人間のように呼んでいるのは、カヴァフィスにとって「街」そのものが「人間」であるということの証拠かもしれない。
 恋人は現れ、また去っていく。けれど「街」は去っては行かない。そこへ行けば「時」を超えて、あの瞬間があふれてくる。よみがえってくる。そして、また新しく「時」を刻みはじめる。そうやって「感覚」は豊かになっていく。
 こういう詩を読むと、カヴァフィスはごくごく親しい人にだけ向け詩を書いていたのかもしれないという気がする。知らない人に読ませるのではなく、会ったことがある人、顔見知り、互いの感覚を知っている相手にだけ向けて詩を書いていたのだと感じる。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
ヤニス・リッツォス
作品社