中井久夫訳カヴァフィスを読む(146) | 詩はどこにあるか

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中井久夫訳カヴァフィスを読む(146)        

 「聞け、おまえはスパルタの王ぞ」は「スパルタにて」のつづき。カヴァフィスは史実を何度も詩にしている。王クレオメネスが母親を人質として差し出す。その直前のことを書いている。

つとわが子の王をやさしく抱き寄せ、くちづけした。
ここで王妃の勁きこころは立ち直った。
威厳を取り戻した堂々たる王妃は
王クレオメネスにのたもうたそうな、「聞け。おまえはスパルタの王ぞ。
今出ればもはや、誰にもみせるな、泣きっ面はもとより
スパルタにふさわしからぬふるまいはこれ皆すべて。
このことのみはなお我が権力のうちにあり。
いく手にあるはすべて神の御手の中なり。」

 王妃がほんとうにそう言ったのか、あるいはカヴァフィスの創作か。
 いずれにしろカヴァフィスが書きたかったのは、王妃の「声」の強さである。「声」を支配する「主観」の明確さと言い換えてもいい。「主観」、つまり自分のものであるからこそ、それを自分で制御できる。主観は「我が権力のうちにあり」ということ。
 母は、それを息子に伝える。おまえも「主観(感情)」を自分でコントロールして、スパルタ人にふさわしくない振る舞いはみせるな、と。運命がどうなろうと、それは神任せ。しかし、自分の感情は自分で支配する。自己の王(権力の支配者)は自分である。
 中井久夫は、この強いことばを「口語」と「文語」をまじえながら表現している。
 「口語」では、ことばの強さは「王ぞ」の「ぞ」という濁音、「泣きっ面」の「っ」という促音、それぞれ息が声になる瞬間に力がこもる「音」とともにある。一方、「文語」では「うちにあり」「中なり」という抑制のきいた静かな「音」とともにある。この対比が、非常に音楽的でおもしろい。
 全部が「口語」、あるいは「文語」では、この音楽は生まれない。こういう「声」の瞬間的変化を音楽として響かせることばづかい、中井の訳は、魔術的な魅力にあふれている。話者の精神の動きの速さを再現していて、驚くばかりだ。
 この複雑な変化があるからこそ、「今出ればもはや、誰にもみせるな、泣きっ面はもとより/スパルタにふさわしからぬふるまいはこれ皆すべて。」という倒置法の文が生きてくる。この倒置法は何かを強調させるための倒置法ではなく、意識をことばが追い越して出てしまったための倒置法である。「誰にもみせるな」といういちばん大事な「主張(主観)」が先に肉体から飛び出してしまう。そのあとで、何をみせてはいけないかという「主題」が出てくる。「口語」(瞬間的なしゃべりことば)を「文語」(主題を意識することば)が追いかけて、それをのっとるという感じか。
 しかし、おもしろいのは、こういうことばに触れたとき明確に感じるのは「意味」ではなく、ことばの呼吸、ことばを発している人間の「肉体」のリアリティーである。「声」化されたことばは、話者の「肉体」そのものなのだ。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
ヤニス・リッツォス
作品社