中井久夫訳カヴァフィスを読む(144 ) | 詩はどこにあるか

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中井久夫訳カヴァフィスを読む(144 )        

 「アレクサンドロス・ヤナイオスとアレクサンドラ」は次のようにはじまる。

成功に陶酔し、しんそこ満足して
王アレクサンドロス・ヤナイオスと
その妻・王妃アレクサンドラは
イェルサレムの通りを闊歩する。

 この詩にかぎったことではないがカヴァフィスのことばそのものには「詩的」という印象が少ない。いや、まったく詩的な印象を欠いている。一行目の「成功に陶酔し」という書き出しは説明的な散文の響きである。「しんそこ満足して」も単なる説明に過ぎない。どこに詩人の工夫(詩人にしか書けないことばの奥深さ、ひと目をひく美しさ)があるのかわからない。二行目、三行目は「固有名詞」なので、手の加えようがない。四行目も味気ない。「闊歩する」を何か他のことばで言い換えないと詩とは言えない。
 さらに、この詩は、

楽隊を先頭にして
あらゆる贅を尽くしてきらびやかに--。

 とつづくのだが「贅」の具体的な描写がない。「きらびやか」の具体的な描写もない。つまり、個性的なことばというのもが完全に欠けている。簡便な歴史の教科書にさえ、贅のひとつやふたつの具体例が書いてあるだろうに、カヴァフィスはそれを書かない。
 なぜだろう。
 カヴァフィスは、「贅を尽くしてきらびやかに」と書けば、それで通じると思っている。つまり、この詩を読むひとは「贅を尽くす」ことがどんなことか、「きらびやか」とはどんな様子かを知っていると確信している。「成功に陶酔し」も、どういうことかわかっている。「しんそこ満足して」というのも、わかりきっている。
 そういうことを前提としている。
 だから余分な修飾語や、個性的な表現をしない。
 これは、詩人の側からではなく、読者の側から、つまり「時代」(状況)の側からいえばどういうことになるだろうか。
 「時代」は「成長期」ではない。言い換えると、次々に新しいものが生まれ、「いま」を活性化させるという状況にはない。生まれるべくものはすべて生まれてしまった。新しいものは何もなく、周知のものが「熟していく」。熟すを通り越して下り坂に向かおうとしている。
 花にたとえるなら散る寸前。太陽にたとえるなら沈む寸前。まだ、そこにある。そして、それは「盛り」とは別の、不思議な疲労感、けだるさをまとっている。成熟へ駆け上った「時代」を生きてきたひとは、それを説明しなくても予感のように感じる。そういう読者を想定して書かれている詩だ。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
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